羽生結弦(19)が緊急事態を乗り越え、執念の演技で感動を与えた。
そのアクシデントは突然起こった。11月8日に開かれた、フィギュアスケートのGPシリーズ第3戦中国杯最終日。男子フリー直前の6分間練習中、中国の閻涵とほぼ正面から激突した。
現地で取材をしていたジャーナリストが、そのときの様子を語る。
「華麗な演技を期待して、スタンドから『ゆづる~』と女性ファンからの声援が飛んでいた次の瞬間、羽生がジャンプのタイミングを計ろうとやや沈み、後ろ向きから前を向いたときでした。激しくぶつかり、さらに氷で顔面を強く打ちつけたのだ。2人はそのまま氷上に倒れ、動かなくなった。羽生の頭部は流血し、ただごとではないと感じました。場内からは多くの悲鳴が上がっていました」
しばらく立ち上がることができなかった羽生は、顎からも出血。白いリンクが鮮血で生々しく染まる。数分後、歩くこともままならない様子で、棄権すると思われた。しかし、治療を受けリンクサイドに姿を見せコーチのブライアン・オーサーに「演技したい」と直訴、6分間練習に参加した。
ショートプログラム2位からの逆転を期していたが、もはやリンクに立つことが大事だった。本番の冒頭、4回転サルコー、4回転トーループで転倒し、計5回も転倒した。そのたびに悲鳴と声援が入り混じる。
元五輪選手でプロスケーターの渡部絵美さんは、その精神力に驚きを隠せない。
「こんな状態ですべる選手は見たことがありません。五輪でも世界選手権でもないので、通常であれば棄権するはずです。でも、羽生選手は演じ切った。日本を背負って立っているという、彼の責任感の強さがそうさせたのでしょう」
演技後、立っているのがやっとの状態。得点が発表されると涙が溢れ、号泣した。その責任感と不屈の闘志はどこから来るものなのか。
その秘密の一端が、故郷・仙台にある。中学校時代の恩師が振り返る。
「羽生君は、特別支援学級の生徒と特に親しくしていました。『自分より苦しい立場の人ががんばっている。その人たちのためにもがんばる』ということを言っていたのが印象に残ります」
2011年の東日本大震災では、自らも避難所生活を余儀なくされた。そんなとき「自分はスケートしていていいのだろうか」と悩んだが、「いい演技をして、多くの人を励ましたい」と誓ったという。
だから羽生は、カナダを拠点にしながらも、今も地元のリンクでも練習をする。震災で北陸地方に転居した特別支援学級の友人がいた。そこでアイスショーに出演した羽生は、友人のために席を用意したこともあった。
結局、中国杯は2位。演技を終えた安堵感と悔しさからか、嗚咽を漏らしながらストレッチャーで病院へ直行。顎を7針、右側頭部を3針縫い、足も肉離れを起こしているが、11月末のNHK杯に出場の意向を示しているという。
フリーを「オペラ座の怪人」で演じ切った羽生を、地元の人たちは「仙台の怪人」と誇りに思っているに違いない。
(ジャーナリスト・青柳雄介)