「若い頃から自分を売り込むことに全力を注いでいる感じがあった。上昇志向が強く、全日本移籍も自分の存在価値を高めることができると考えたから。しかし全日本はジャイアント馬場さんを中心とした家族的団体で、生え抜きや外国人を大事にする。フラストレーションが溜まっていく中での新日本復帰決意は必然だったのでは……」
自分に対する大きな自信があったが、それは諸刃の剣でもあった、と長州をよく知るプロレス記者。
00年現役復帰を果たすが02年には再び新日本を退社、03年3月にWJプロレスを旗揚げするもあっという間に団体崩壊した。その後はインディー団体参戦などを重ねつつ、04年には新日本に再度参戦、現場監督の職にも返り咲く。その後は自身と関係深い団体への参戦などを繰り返し、19年6月26日の後楽園ホールで現役引退した。
天龍は出身は福井県だが、中学2年時に大相撲・二所ノ関部屋入門のため東京都へ転校。西前頭筆頭まで上り詰め76年に大相撲引退、全日本プロレスに入団するとともに海外修行を行い、プロレスの基礎から叩き込まれた。米国でデビューし帰国するも日本マットではなかなか芽がでなかったが、再び米国修行を敢行し、帰国後から飛躍の道を歩み始めることとなる。『風雲昇り龍』と呼ばれシングル、タッグの両方で存在感を示した。ジャンボ鶴田との『鶴龍コンビ』や阿修羅・原との『龍原砲』など、名タッグを結成。また『天龍同盟』として体制側への対抗、そして全日本参戦していた長州との抗争など、記憶に残る激しいファイトをみせた。
「大きな期待をされプロレスに転向したが、受け身にも苦労して、続かないのでは、と言う声も聞こえたほど。そんな天龍を支えたのは反骨心。全日本時代はジャイアント馬場、ジャンボ鶴田に次ぐ『第3の男』と呼ばれていた。本人は多くを語らなかったが屈辱だったはず。それを並大抵ではない練習で補った。練習以外では大酒を飲むなど、昔ながらの愛すべきレスラーだった」天龍は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の両巨頭からフォール勝ち(3カウント勝利)を収めた唯一のレスラー。その瞬間を見届けたプロレスライターは、天龍の素晴らしさを興奮気味に語る。