難病のALSを患う女性が死を望む内容をツイート、それに応じて殺害したとして、嘱託殺人容疑で医師が逮捕された衝撃的な事件。社会に問いかけるものは何なのだろうか。AERA 2020年8月10日-17日合併号から。
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難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)への嘱託殺人容疑で、医師2人が逮捕された。女性はSNSに「惨めだ」「生きたくない」などと綴っていたとみられ、これに応じて医師2人が薬物を投与して殺害したとされる。この事件が社会に投げかける「問い」は何だったのか。北九州市のNPO法人・抱樸(ほうぼく)の理事長で牧師の奥田知志さん(57)に話を聞いた。
──事件をどうみましたか。
容疑者の医師2人は主治医ではないので、安楽死などの問題とは別です。ただ、背景には重い病気や障害がある人、高齢者らに向けられる経済至上主義の価値観があるように思えます。今は、自己存在や自己有用性の証明がないと、自分の存在が薄くなったり、不安になったりするプレッシャーがあります。そうした時代の価値観の中でALSになった彼女は絶望感を抱いたでしょう。それに輪をかけて「生きていても価値がない」という時代の冷たいまなざしが、病気からくる絶望以上に追い詰めたのではないでしょうか。
──本人が抱く絶望と、時代が抱かせる絶望とがあると。
「生きづらさ」という言葉があります。それは単に個人が勝手に思っているだけでなく、生きづらくさせている社会や時代、価値観があります。二つの絶望は個人にとっては一体となって見分けがつきにくく、それで死を選択しようとするときに、まったく主体的に自由な選択をしていることにはなりません。
その前提を考えずに一足飛びに個人の問題に集約して、死についても主体性や自由の問題であると変な民主主義を持ち込む人もいます。しかし、選択肢が狭められて不自由な選択しかできないところに、自由な主体性など発揮できません。こうした議論は、形を変えた自己責任論であり、社会が責任を問われないための理屈です。