国連の放射線影響科学委員会のワイス委員長は4月6日に「福島第一原発の事故はチェルノブイリより被害は小さいがスリーマイルより深刻」と発言した。チェルノブイリに何回も行っている『がんばらないけどあきらめない』の鎌田實さんと被ばく医療の第一人者、長崎大学の山下俊一教授にチェルノブイリの教訓などについて話し合ってもらった。
鎌田:僕は放射能問題でわからないところがあると、山下先生に毎日のように電話で聞きました。たいへん心強いアドバイザーでした。
山下:いまは福島県のアドバイザーになりました。
鎌田:僕は山下先生を人間として信頼しています。山下先生は東京電力から研究費はもらっていませんよね。
山下:もらっていませんが、欲しいですね。(笑)
鎌田:こういう点が大事だと思うんです。山下先生は科学的に健康に大丈夫な範囲とか明確にしようと必死ですが、先日のNHKテレビで山下先生が出演したのを見て少しがっかりしました。大丈夫と繰り返されましたが、なぜ大丈夫なのか、時間をかけて説明していただきたかった。
山下:私は1991年にチェルノブイリに初めて入ってから20年間仕事をしてきました。チェルノブイリ周辺はもう100回以上行きました。見えないものへの恐怖心を払拭することがどんなに難しいか痛感しました。鎌田先生と最初に会ったのもチェルノブイリでした。
鎌田:はい。最初の1991年です。僕もこれまで9回行きました。
山下:チェルノブイリを歩いていてよく現地のおかあさんに「この子は大丈夫だろうか。結婚できますか」と質問されます。汚染地域に500万人近い人が住んでいますし、汚染食物も食べている。しかし、僕は答えを持たない。そんなときに「私は長崎から来ました。被爆2世です」と言うと、会場の暗い雰囲気が変わる。広島・長崎は反核ということだけではなく、聞く相手に安心感を持たせます。現場を歩くことが私のモットーです。私はWHO(世界保健機関)にも2年間行って、放射線事故の国際対応もしました。
鎌田:正式にはジュネーブにどんな職名で行かれていたのですか。
山下:放射線プログラム専門科学官として世界の安全防護と緊急対応のシステムづくりをしました。2007年に長崎に戻りましたが、今回の福島原発の情報が入ってきたのは大震災翌日の3月12日。すべてマスコミからでした。
鎌田:専門家の山下先生のところに一報も入ってこないのですか。
山下:屋内退避から避難。最初は3キロから10キロ。これはマニュアルどおりだったと思います。そのあと20キロにした。安全なところに避難したのだから大丈夫なはずなんですね。ところが20キロから30キロ圏内が屋内退避になった。これを聞いて僕はおかしいなと思いました。長崎大学のスタッフには14日に福島に入ってもらっていました。福島のスタッフからは「福島市はいま雪が降っています。計測器が雪にガーガー音を立てています。放射性物質が降り注いでいる」と報告がありました。
鎌田:20キロから30キロの屋内退避の指示が出されたのは15日です。
山下:問題は医療関係者も行政も放射能や放射線の知識が乏しくパニックになったこと。僕は要請がなければ現地支援に入れない。福島県立医科大学の理事長が僕に電話してきたので、18日の朝一番で飛びました。入ってびっくりしたのは、みんな浮足立っている。これだけ原発があるのに事故があると想定していない。専門家もいない。全くの安全神話の中にいたのです。それで原子力災害の現地対策本部であるオフサイトセンターのある県庁にも行きました。保安院や経産省、厚労省、自衛隊など人数がたくさんいて、はじめは調整がうまくついてない。原子力災害の場合、中央官庁と直結です。県はわからんからぜんぶ聞く。中央では諮問委員会に質問を出す。答えはなかなか返ってこない。現場は困ってるのに、情報が途中でマスコミに先に出ちゃって、現場に対する説明がない。これはまずかった。佐藤(雄平)知事も非常に懸念されて私をアドバイザーにして、20日から、いわき市、福島市、郡山、田村、いろんな町をまわりました。
鎌田:そのまわってる間にも僕は何度も電話しましたが。(笑)
山下:チェルノブイリのときもそうですが、現場を歩かないとわからない。鎌田先生から電話があったときはうれしかった。鎌田先生には南相馬にぜひ入ってほしかった。チェルノブイリと同じで、汚染と聞いただけで医師も入りたがらない。とくに屋内退避の20キロから30キロゾーンには誰も行きたがらないし、物も運ばれない。まさに最初の1、2週間は現地への支援は空白でした。
◆あわてた官邸と保安院、情報開示に失敗した◆
鎌田:ある病院では、院長が、ぜひ残ってほしいが、自主判断でいいと言ったら、半分ぐらいのスタッフがいなくなった。医療用酸素がないとか、医薬品がない、残った医者はもうへとへとだというのを聞いて、諏訪中央病院の院長にお願いして医師や看護師と南相馬に入りました。いままた諏訪中央病院のチームが南相馬に3日間入っています。
山下:拠点となるべき福島医大には、現場の作業者が運ばれてくる可能性がありました。水素爆発もありましたし、足もある程度汚染した人もいたから。そういう人たちを迎えるときの除染、緊急時の対応を福島医大・自衛隊といっしょにつくりあげた。福島医大は巡回医療も7チームつくった。立派です。いまは中長期にわたる地域医療戦略を練っています。
鎌田:そういう状況のなかで、この日本を壊さないためにどうしたらいいのか。誰だって余分な放射能を浴びるべきではないと思う。その前提で、避難問題を聞きたいのですが、3月11日にまず3キロ圏避難と、その後20キロから30キロ圏内の屋内退避。その時点では妥当だったんですね。
山下:間違いなくそうです。
鎌田:12日の朝に、その3キロ圏をやめて10キロ、さらに20キロ圏にした。このときに、僕は、チェルノブイリをずっと見てきたので、やっぱり何度も移動するということ自体、国民の信頼を失うことだと思った。避難所を移るというのは、過酷です。動かすとすれば勇気をもって30キロ圏じゃないかと思いました。
山下:20キロと倍にした根拠はいろいろと後付けになるかもしれませんが、ここまで逃げれば大丈夫だろうと踏んだと思います。屋内退避にした理由は、前日に水素爆発が起こったからです。泡をくったと思います。しかし、3週間も屋内退避を解除できないとは普通は考えられない。屋内退避のあとは避難です。ただ、1号から4号機まで問題が次々と起きて戦場と化しました。その証拠が官邸のあわてた対応でした。混乱の中では迅速に情報が開示できず、説明責任を国内外に対しうまく果たせなかったと思います。
鎌田:僕は、官邸はドジだなあと思った。山下先生だったら、世界にメッセージを出せるわけじゃないですか、日本がやっていることを。
山下:いや、逆だと思いますよ。僕は、福島の現場に入らなかったら、こんなことは言えなかった。官邸にいれば、下から上がってくる情報だけで判断しますから。原子力安全委員会は情報不足だったと思います。非常時に平常時のマニュアルどおりにしようとするから、こうなっちゃう。まずは現場を見て、現場で判断して、的確な情報発信をすることです。遅ればせながら国もそういう放射線リスク管理アドバイザーをつくったり、外部からの原子力災害医療専門家チームをつくったりしています。
◆3週間以上も屋内退避、理由がわからない◆
鎌田:僕が南相馬に入った以前から、屋内退避、そのあと自主避難要請ということになるわけですけども、決定が非常に曖昧です。あれは短期間の処置ですよね。長期間やるのなら、人と物をしっかり外から入れるということが大事。そのことを官邸はやれなかったなあと思って。
山下:まさにそうです。屋内退避させたら、退避した人たちを支援しなくちゃいけない。それは24時間です、ふつうは。24時間たったら避難か安全宣言するのが原則です。それをいずれもしなかった。理由があるんでしょうね。よくわかりませんが。チェルノブイリのあの土壌汚染のマップを見てわかるように、汚染は風向きでまだらに飛ぶから同心円では広がらない。あくまでも行政区分です。僕はずっと30キロ外でも必要に応じて避難させんとだめだということを言ってるんです。そういう話をちらっとしたら、4月5日、飯舘村の菅野典雄村長は、「わしはがんばる」とはっきり言いました。村を再生して、世界の放射線安全宣言のモデルになると言っています。感銘しました。政府は6日、妊婦さんと3歳までの子どもたちは外に出して、経済的保障をすると言ってきました。現場の声が届いたと思います。しかし、村の苦難は続きます。
鎌田:マスコミにあんまり大きく取り上げられませんでしたが、あれは大ヒットです。低線量被ばくについては、意見がいろいろ分かれていて、まあその質問を先生には一回電話でしつこく聞きましたが、たとえば100ミリシーベルトの被ばくを受けると、0・5%ぐらいがんになる率が高くなるという研究論文も出てます。
山下:いま議論していることは、少ない量を1年間飲み続けたり、食べ続けたり、そこに住むと、自然界の数倍、あるいは10ミリシーベルトを超える。だからいまは障害は起こらないけども、将来はわからないという表現をしているわけです。僕はそれにあえて「大丈夫だ」と言うわけですよ。理由は、1回、100ミリシーベルト浴びると、細胞に傷が100個できます。1ミリシーベルト受けると細胞の傷が1個できます。1個の傷は体はすぐ治します。100個の傷はときどきエラーが起こる。遺伝子は傷がついても治るんだということが大前提です。チェルノブイリでも、一般住民の低線量被ばくが問題ですが、唯一起きた病気は、子どもの甲状腺がんです。世界中で、内部被ばくのデータがあるのはチェルノブイリだけです。だからチェルノブイリの経験が福島に生かされるんです。日本政府はすぐに、汚染やそのときの吸入を防ぐだけでなく、口から入る食物連鎖をストップさせたわけです。暫定基準をつくって。このやり方は、チェルノブイリの教訓が生かされたと思います。
鎌田:じゃあ、食べることに関して、つまり内部被ばくを防ぐことに関しては、かなり慎重に神経質になってもいいということですか。
山下:日本人そのものが食の安全に対してセンシティブです。ハエがたかっても食べないでしょう。そういう文化に育ってますから、日本人はパニックにこそなれ、放射能汚染物質を食べ続けることはないですよ。
鎌田:1ミリシーベルトと100ミリシーベルトでは、100ミリシーベルトはもしかしたら何か起きるかもしれないというのを、先生も認めていて、1ミリシーベルトだったら、先生は、まず問題がないと思われるんですね。
◆福島に日本の英知結集、被ばく対策の拠点作り◆
山下:僕の「大丈夫」という話を聞くと、山下に騙されると言う人がよくいます。放射線自体が大丈夫というわけでは、ありません(笑)。でも、結局、誰かが現状の安全や安心を正しく言い続け、放射線を理解させないといけない。そうしなければ、大事な単位をわかろうとしなくなる。いまは天気図みたいに、ニュースで地区ごとに1時間あたり0・5マイクロシーベルトとか出てくるんです。正しく怖がるために、その安全域を示すのがわれわれの責任です。花粉症や紫外線の数値のようなものです。
鎌田:僕は哲学がだいじじゃないかなと思っています。哲学がこの国になくなったから、こういうことが起きてしまった。自己批判してるんですけども、チェルノブイリに僕は20年通って、原発の持っている危険をわかっていながら、日本のいま置かれている状況や若者の雇用を増やすために、原発はやっぱりしょうがないかなあとかって思ってしまった。これ以上原発を増やさせなければいいと考えていた。この国に漂っている空気に負けた自分に問題があったんじゃないかと考えたりします。いまは中長期という言葉の具体的な期間についてを住民はいちばん知りたいと思いますが。
山下:放射性降下物の影響から考えると何年も続かないでしょうね。広島・長崎の原爆のことを思い出してもらえればいいと思います。あのあと、草木も生えないと言われた。でも、3カ月目からもうすぐにみんな戻ってきて、復興しました。そのひとつの理由は、日本は恵みの雨の国なんですよ。放射性降下物は、だいたい雨に洗い流されます。セシウム137は30年の半減期だから、けっこう土壌に残るんですが、じゃあ30年かというと、おそらくその半分、あるいはもっと短いと思いますよ。日本のハイテクはすごい。土壌の改善とか改良技術を最大限に生かすと思います。問題は、長期の健康影響です。いまの子どもたちががん年齢になったとき、本当にこの被ばくの影響がないのか。私は福島に日本の英知を結集してそういう拠点をつくるべきだと主張しています。
鎌田:放射性降下物の量で比べると、僕は日本もチェルノブイリの50分の1ぐらいの被害を受けてるんじゃないかなあと思ってるんですけど、違いますか。
山下:私はチェルノブイリの100分の1ぐらいと聞いています。それは、かなりの量が出たということです。
鎌田:僕は南相馬の後に、少し時間を置いて石巻、女川などに入りました。石巻とか、女川では3週間たってもお風呂に入ってない人たちがかなりいます。阪神大震災とか中越地震のときは、まあ10日目ぐらいには多くの人は1回はお風呂に入ってました。医師の立場から言うと、お風呂に入ると、感染症対策にもなるし、精神的なダメージを克服できる。それがずいぶん遅れてると思いました。東北の人のがんばりはすごい。立派なもんだと思う。だから、その人たちがくじけない間に、物も人もカネも、僕たちがしっかり投入するということがだいじで、投入することによって新しい日本が生まれてくるはずです。
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やました・しゅんいち 1952年、長崎県生まれ。長崎大学大学院の医歯薬学総合研究科長。91年からチェルノブイリ原発事故後の国際医療協力を主導。2005年から2年間、世界保健機関(WHO)ジュネーブ本部で放射線プログラム専門科学官を務めた
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かまた・みのる 1948年、東京都生まれ。諏訪中央病院名誉院長。91年に日本チェルノブイリ連帯基金を設立し、ベラルーシに18年間で医師団を91回派遣し、約14億円の医薬品を支援してきた。著書に『がんばらない』『あきらめない』『なげださない』など。ホームページ