踏切などの見通しのよい場所からは、遠くに東京スカイツリーが望める。亀戸水神~東あずま(写真/岸田法眼)
踏切などの見通しのよい場所からは、遠くに東京スカイツリーが望める。亀戸水神~東あずま(写真/岸田法眼)
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亀戸線と明治通りが交差する、小村井駅前の踏切。LED式のため消えて見えるが、赤・黄・赤の変則的な信号機である。小村井駅付近(写真/岸田法眼)
亀戸線と明治通りが交差する、小村井駅前の踏切。LED式のため消えて見えるが、赤・黄・赤の変則的な信号機である。小村井駅付近(写真/岸田法眼)
東あずま駅ですれ違う亀戸線の電車。左の白いのが東武鉄道の標準色、右の緑色が「昭和30年代の通勤形電車試験塗装車両」(写真/岸田法眼)
東あずま駅ですれ違う亀戸線の電車。左の白いのが東武鉄道の標準色、右の緑色が「昭和30年代の通勤形電車試験塗装車両」(写真/岸田法眼)
亀戸駅側から最初の踏切は、総武本線の築堤の下に通じている自転車・歩行者用。この雰囲気も、亀戸線の魅力だ。亀戸~亀戸水神(写真/岸田法眼)
亀戸駅側から最初の踏切は、総武本線の築堤の下に通じている自転車・歩行者用。この雰囲気も、亀戸線の魅力だ。亀戸~亀戸水神(写真/岸田法眼)

 東京23区内にありながら、電車はたった2両。しかも、日中は10分間隔で運転、一部分を除き複線という不思議なローカル線がある。それは東武鉄道亀戸線。伊勢崎線の曳舟とJR東日本総武本線の亀戸を結ぶ3.4キロの路線だ。乗るのもよし、沿線の公道を遊歩道感覚で歩いて散策するのもよしという、摩訶不思議な世界へご案内しよう。

【写真】小村井駅前踏切のヘンな信号機はこちら

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■越中島線として計画された亀戸線ショートヒストリー

 東武鉄道は1897年11月1日に創立したが、現在の亀戸線となる路線の建設計画は1895年にさかのぼる。4月の創立総会後、ほどなく本所小梅~柳島~平井新田~越中島(えっちゅうじま)を結ぶ現在の越中島線(約6.4キロ)、5月に東京市本所区と栃木県の足利を結ぶ路線(約79.8キロ。現・伊勢崎線)を敷設すべく、政府に申請した。当時、越中島には港湾があり、両毛地域から主要輸出品である絹織物の輸送を企図していたのである。

 ところが、ルートは東京の外廓線(がいかくせん)として、市区改正の設計と密接な関係があるため、慎重な審査を要するという理由で許可されず、一度は断念した。

 2年後の1897年9月13日、すなわち創立2カ月前に北千住~下大畑~亀戸~越中島(12.9キロ)、下大畑~小梅瓦町(約1.1キロ)、亀戸~本所(約1.6キロ)の敷設を申請したところ、1898年10月の仮免許状交付を経て、1900年6月30日に免許状が交付された。なお、亀戸~本所は諸般の事情でとりやめとなった。

 工事は北千住~曳舟(仮称・下大畑)~吾妻橋(仮称・小梅瓦町。現・とうきょうスカイツリー)が順調に進み、1902年4月1日に開業した。一方、曳舟~越中島は上記区間の開業後に本工事に着手するも、越中島付近の敷設に支障が生じ、ひとまず曳舟~亀戸の工事を進めることになった。

 同区間は非電化、単線として1904年4月5日に開業。当時、途中駅は天神(1908年4月4日に廃止後、1925年9月4日に再開業)のみ。さらに、亀戸から既設の総武鉄道(現・総武本線)に直通し、1909年2月まで両国橋(現・両国)発着となった。

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各駅が一挙に開業し利便性が向上