右は1995年に起きた阪神・淡路大震災後の兵庫県芦屋市の避難所、左は2016年の熊本地震後の熊本県益城町の避難所。いずれも発災後約2週間が経過しているが、避難者が密集して雑魚寝する状況は同じだ (c)朝日新聞社
右は1995年に起きた阪神・淡路大震災後の兵庫県芦屋市の避難所、左は2016年の熊本地震後の熊本県益城町の避難所。いずれも発災後約2週間が経過しているが、避難者が密集して雑魚寝する状況は同じだ (c)朝日新聞社
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 台風の季節。十年一日どころか、何十年経っても変わらないのが日本の避難所だ。ベッドや食堂を備える海外とは雲泥の差。なぜ改善は進まないのか。AERA 2020年10月5日号では、日本の避難所が抱える問題点を取材した。

【表】洪水浸水リスクが高い地域はこちら

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 7月4日午前7時ごろ、本県人吉市の吉岡弘晴さん(84)が1人で暮らす平屋に球磨川からあふれた濁流が入り始め、あっという間に胸の高さほどになった。それから数時間、自宅の廊下にあったいすの上で水が引くのを待った。窓からは勢いよく流れる濁流が見え、生きた心地がしなかった。

 水がひいたのはこの日の午後3時ごろ。この「7月豪雨」では熊本県内だけで65人(9月3日現在)が死亡した。

 吉岡さんの避難生活は、2カ月半に及んだ。まずは、日頃通っている教会の集会所に身を寄せた。寝泊まりできるような設備が備わっており、自ら食材を購入して食事の準備をするなど2週間ほど快適な生活を送った。

■仮ベッド設置に数週間

 その後、人吉市が開設した避難所に移った。今後の生活に必要な様々な情報が入るだろうと考えたからだ。しかし、空調が壊れたため1泊して翌7月19日には小学校の体育館の避難所に移り、9月21日まで約2カ月にわたりここで過ごした。

 朝はパン、昼と夜は弁当だ。食中毒の心配からか、おかずは揚げ物が中心。新型コロナウイルスへの対策だったのかもしれないが、ボランティアなどによる炊き出しもなかった。避難者が自由に使える冷蔵庫もないため、出てくるものを食べるしかない。風呂は2日に1回。トイレは和式だった。

「脂っぽい食事はこたえましたが、4年前の熊本地震の教訓を生かしている点もありました。段ボールベッドを入れて、カーテンで仕切ってプライバシーがある程度守られています。不満よりは、感謝の気持ちの方が大きいです」(吉岡さん)

 熊本県によれば、7月豪雨では最大で39市町村の2512人が避難し、212の全避難所で希望者すべてに段ボールベッドと、世帯ごとの布のパーティションを設置したという。ただ、吉岡さんの住む人吉市で設置が終わったのは7月下旬。県の担当者は「現場が混乱する中でスムーズにいった」と自画自賛するが、7月下旬まで我慢を強いられた人もいた。これは、被災者なら当たり前に受け入れるべき状況なのだろうか。

 一般社団法人避難所・避難生活学会理事で、新潟大特任教授の榛沢和彦さん(心臓血管外科)は、避難所の最低限必要なものを「TKB」と呼ぶ。トイレ、キッチン、ベッドのことだ。

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