「その後、共通テストの英語民間試験も記述式も、見送られましたが、争点となったのは公平性など主に制度設計の問題でした。私たちがむしろ問題視したのは『実用』『情報』に偏重し『人文知』を軽視する、入試・教育改革全般に通ずる価値観でした」

 人文知は、世界のあり方を根本から問い直す学問だ。「人間とは」「社会とは何か」。文学、哲学、社会学など、ことばを使って世界を対象化する。

 シンポジウムでは「ことばの問題」を入り口に、「役に立つか否か」の表層で物事をとらえ、普遍的な課題に向き合うことを軽んじる今の日本社会の危うさがあぶり出された。
 会場にいた編集者が共感し、書籍化を提案した。

「出版後、『こういう考え方の上に立つ発想が重要』との声が、工学部など理系の研究者の方たちから上がったのが印象的でした」(安藤教授)

 先の見えないコロナ禍で、人文知の役割はますます重要になっている。手軽ながら、道しるべとなる一冊だ。(編集部・石田かおる)

■HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGEの新井見枝香さんオススメの一冊

 短編集『百年と一日』は、人間と時間の不思議について描いた一冊。HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGEの新井見枝香さんは、同著の魅力を次のように寄せる。

*  *  *

 目次には、一文で物語のあらすじを端的に説明するタイトルが33個、並んでいる。短い物語は、あらすじ以上でも以下でもなかった。

<娘の話>は、とりとめもない娘の話を母親が聞く話だ。<銭湯を営む家の男たちは皆「正」という漢字が名前につけられていてそれを誰がいつ決めたのか誰も知らなかった>は、タイトル通り、正太郎の息子が正彦で、正彦の息子が正之助である。物語の視点はその誰でもなく、商店街の端にある銭湯の番頭が移り変わっていく様を定点で追いかけるだけだ。

 しかし「誰も知らなかった」ということを知る読者は、彼らを誰よりも、知っている。時間をかけて吸収された物語は読者の記憶と入り交じり「あの銭湯どこにあったっけ」「あの話誰に聞いたんだっけ」などと、ありもしない銭湯を探し始めるかもしれない。

AERA 2020年10月5日号