というのも、筆者は新垣に対し、昔からほとんど魅力を感じないからだ。その万人ウケしそうなかわいさ、からっとした明るさ、健全で爽やかな雰囲気という、ガッキーをガッキーたらしめる要素が自分にはつまらない。そのぶん、そういう要素をやや希薄にしたような吉岡の陰りや屈折、ウエット感に魅力を感じるわけである。
たとえるなら、太陽と月、ひまわりと月見草の違いとでもいおうか。どちらのタイプもいてこそ、芝居も芸能界も面白い。ところが「女が嫌う女」タイプは叩くと世の女性が喜ぶので、メディアもそういう扱いをしがちだ。それこそ、発言もネガティブな切り取られ方をされやすい。吉岡の場合も、水着グラビアをめぐる言葉が批判され、本人はこんな異議申し立てをした。
「初めは戸惑いもあったけれど、グラビアの仕事ができて、今思うとすごく感謝してて、この仕事をしてる人たちにリスペクトがあるという話をしたのに『嫌だった』ということばっかりバーッと書かれてしまって」(文春オンライン)
これはある意味「女が嫌う女」タイプの宿命だ。彼女にはそれにめげることなく、持ち味を発揮していってほしい。そのうち、女ウケする役にもめぐりあえるだろう。
ただ、本人はもとより、世間にももうちょっとわかっていてもらいたいことがある。それは「女が嫌う女」と呼ばれること自体、魅力の証しであり、芸能界では特に貴重な存在だということ。すなわち、どんぎつねの役が彼女ほどハマる女優はいないし、だからこそ、3年以上も続く人気シリーズとなっているという確かな事実である。