延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー
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筆者(左)と近藤等則さん
筆者(左)と近藤等則さん

 TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。今回は、トランペッターの近藤等則さん。

【写真】延江浩さんとトランペッターの近藤等則さん

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 フリージャズトランペッターの近藤等則さんが亡くなった。

 彼とは楽しい思い出しかない。だから悲しみは何倍にもなる。初めての出会いは山梨・小淵沢の中村キース・ヘリング美術館。ニューヨークでアート評論の仕事をしている従妹とHIV感染予防啓発のポエトリーリーディングを企画した際、近藤さんはヨーロッパツアーから帰国のその足で駆けつけてくれた。彫りが深く、鋭い眼差しの近藤さんは歩く彫像のようだった。キース・ヘリングの作品群に囲まれての生演奏はフリージャズを聴くのは初めてだっただろう。観客の度肝を抜き、荒々しくも流麗な音楽の底力を知らしめた。

 数年後の再会は福島県いわき市の水族館アクアマリンふくしまだった。東日本大震災で被災した子供たちを集め、黒田征太郎さんがライブペインティングをするというので出かけていったら、近藤さんがいた。

「おー! 久しぶり」と僕をハグするなりトランペットを吹きはじめ、楽しくリズミカルな演奏に子どもたちは歓声を上げながら白い壁面に色とりどりのペンキで絵を描き始めた。

 偶然の再会以降、近藤さんと何度飲んだかしれない。人間相手に閉じられた場所で吹くのは飽きたと海外の砂漠や故郷・四国の海など大自然を相手に演奏旅行を続けていた話もしてくれた。くしゃくしゃのビニール袋を手に地下鉄でやって来て、新作のCD音源を袋から僕に手渡すと、ごくごくビールを飲んだ。近藤さんは僕より一世代上の全共闘世代だ。70年安保闘争の話題になると詩にも似た回想言語が波状的に繰り出され、フリージャズのようでもあった。

 1967年10月8日、佐藤栄作首相南ベトナム訪問阻止運動で京大生・山崎博昭さんが死亡した際のデモでは「京都大学の自治会で、リーダーやっていたやつが友達におって、『近藤、ラッパ吹きは唇と手が大事だから、(デモの)最前線には出るな』と言うんだ」としみじみ。「しかし、高揚した学生運動の荒れながらもリリックな日々も70年の夏前に終わってしまった」とも。近藤さんは70年11月25日、自衛隊市ケ谷駐屯地で三島由紀夫が自決した時、

「自衛隊総監室にごろんと転がった三島の首の写真(朝日新聞夕刊早刷り)より、(サックス奏者)アルバート・アイラーがイーストリバーで水死した記事の方が気になった」

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