


有名な話だが、幕末の偉人・坂本龍馬は誕生日も亡くなった日も同じ11月15日(旧暦。新暦になおすと違う日になる)とされている(まぁ、若干誕生日に関してはいくつかの記述が残っているようだが)。というわけで今日明日は、坂本龍馬の話題でweb界隈もにぎわうと思うので、私は龍馬本人ではなく関連する人物について追ってみることにしよう。
●死後しばらくたってから訪れた龍馬ブーム
坂本龍馬は、明治維新を迎える前年に暗殺された。死後十数年はあまり顧みられることなく、いくつかの龍馬伝によってわずかに注目を集めたものの、このブームも長続きはしなかった。坂本龍馬なる人物の名が広く知られようになったのは、日露戦争の時である。昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の夢枕に龍馬が立って「私が海軍軍人を守る」と告げたという話が新聞に掲載され、全国へと広まったのだ。その後、大佛次郎(阪下吾郎名義)や司馬遼太郎、山岡荘八などの小説に取り上げられ、今や知らぬものはいないほどの有名人となったが、死後直後にはさほど顕彰されていたとも思えない。
●龍馬のたった一人の妻・おりょう
龍馬には妻がいた。その名を「おりょう」という。お龍と書いたようで、漢字が同じであることで龍馬との距離が縮まったと彼女はのちの時代に語っている。先に言ってしまえば、おりょうの龍馬死後の人生は苦難に満ちている。偉人の妻とは思えないような人生を歩き、そして閉じた。彼女は「京都で龍馬の墓を守って暮らしたい」と言っていたというが、龍馬の死後の人生40年弱の間、京都にはほとんど住んでおらず、もっぱら神奈川県の横須賀で過ごした。
●嫌われ続けた妻
おりょうは、土佐の坂本家からも海援隊の隊員たちからも嫌われていたようだ。どちらからも金銭的な援助も受けておらず、援助の手を差し出したのは、西郷隆盛や元薩摩藩士、勝海舟くらいであったとか。明治維新後、出世して裕福になった知り合いも多かったらしいが、援助を断られたり、追い返されたりもしている。もっとも、龍馬との結婚生活はわずか2年足らずであり、坂本家からは正式な妻との認識をされていなかったようでもあり、微妙な立場であったとも言えるのかもしれない。