哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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米大統領選が終わった。トランプ大統領は開票の不正を訴え、負けを認めずに「よい敗者」になれずにいる。これまでトランプを支持してきた右派メディアや共和党議員からも見放され始めた。「悪あがき」という他ない。ホワイトハウスから出たがらないのは私人となった場合に刑事訴追されるリスクを恐れているのではないのか。そう思われても不思議はないほど、彼は「李下に冠を正し、瓜田に履を納れ」てきた。
それにしても、なぜこのような人物に米国の有権者は4年間国政を委ねたのだろう。
フランスの思想家トクヴィルは自著『アメリカのデモクラシー』で、米国の選挙制度には不適切な人物を指導者に選ぶリスクがあることを指摘していた。アンドリュー・ジャクソン大統領についてトクヴィルはこんな評価を下した。「ジャクソン将軍は、米国の人々が統領としていただくべく2度選んだ人物である。彼の全経歴には、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない」。では、米国市民はなぜ凡庸な人物を選んだのか。それは「戦争のない国でしか長く語り草になることはない」ニューオリンズでのささやかな「軍功」のゆえだった。ただし、トクヴィルが「統領としていただくべき」軍人の範としたのはナポレオンである。それと比べてジャクソンの資質を論じるのは気の毒だ。
その上で、資質に問題のある人物を大統領に選ぶリスクを含めて米国の民主制は機能しているとトクヴィルは考えた。米国民主制の際立った特徴は、為政者は徳性と能力において他国に劣るが、国民は他国より開明され思慮深いという点にある。つまり、米国の民主制は統治者と国民の距離が近く、能力においてそれほど変わらないように制度設計されているのである。
だから、為政者は国民の意に沿わない政策をとることができず、長く政権の座にあることもできない。国民の意に反する政策を強行できるほどに賢く強い指導者を持ち得ないことこそが米国民主制の手柄なのだという不思議な褒め方をトクヴィルはした。それから200年経ったが、米国の民主制については、トクヴィルの卓見が今も通用するのかもしれない。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2020年11月23日号