その後、市川百々之助プロダクションに移籍した際、自分で考えて浪花千栄子に改名した。さらに帝国キネマに所属してから、フリーで映画や舞台に出演するようになり数年経った頃、最大手のプロダクションである、松竹から声がかかった。
1930年8月、浪花座の「第一劇場」の公演に参加して以降は、松竹専属の女優として「新潮座」「成美団」など関西新派の舞台に立ち、翌年6月から、第二次松竹家庭劇に新メンバーとして参加することになった。25歳のことである。そのころ彼女は中堅女優になっていた。
■結婚、離婚、そして女優としての飛躍
入団後まもなく、座長の渋谷天外と結婚した浪花千栄子は、座長の妻として「いっしょうけんめい、この20年間、一座のために奔命」したと述懐している。かげひなたなく座員たちの面倒を見ながら、ほかの女優が嫌がる役を率先して引き受け、もう1人の座長である天性の喜劇人・曾我廼家十吾との緊張感に満ちた舞台から多くを学んだ。
戦後、天外が周囲の反対を押し切り、松竹家庭劇を辞めて自分の劇団「すいと・ほーむ」を旗揚げした時も、だれよりも天外の才能を信じていた浪花は、迷うことなく行動を共にして、松竹から離れたことによる苦労を分かち合った。
1948年11月に渋谷天外は松竹に呼び戻され、翌12月には、戦前の松竹家庭劇に曽我廼家五郎劇が吸収されるかたちで、松竹新喜劇が結成された。
晴れて上方喜劇を代表する劇団としてスタートを切った矢先、愛人との間の子どもができた天外から離婚話を突きつけられた。かわいがっていた劇団の若手女優が相手だったことにも深く傷ついたが、それでもまだ劇団を辞める気持ちにはなれず、芝居さえ続けられるのならと劇団に残ったが、別居生活が1年経過した頃、松竹新喜劇の見せ場ともいえる丁々発止のアドリブを天外が避けるようになったことから、退団を決意した。
結果として、松竹新喜劇を離れたことが女優・浪花千栄子の飛躍に繋がったことは間違いない。凛とした女主人からやくざの女親分や下品な老婆まで幅広い芸域を誇り、関西弁ではない役もこなしたが、関西を舞台にした映画やドラマに欠かすことのできない女優といわれた。豊富な舞台経験は、小津安二郎、溝口健二、黒澤明などの名監督からの信頼も厚く、溝口監督の『近松物語』で主演をつとめた香川京子や、豊田四郎監督の『夫婦善哉』の主演女優・淡島千景などは、監督から依頼を受けた共演者の浪花から、方言指導だけでなく立ち居振る舞いなども親切に教えてもらったと、感謝とともに語っている。