長崎のユダヤ人コミュニティーは、公式には1920年代に閉鎖されました。貿易の中心地としての長崎の重要性が低下したからです。シナゴーグは売られ、ユダヤ教の律法トーラーは神戸のユダヤ人コミュニティーに譲られました。ただ一つ長崎に残ったのが、ユダヤ人墓地です。長崎大学病院の近くの丘にある「坂本国際墓地」の中にそれはあります。数年前、私は現地を訪れた時、墓石に彫られたヘブライ文字の名前を見つけました。そこは長崎市を見下ろす丘に立ち、私は20世紀初頭、この街でユダヤ人たちがどのように生きたのだろうかと思いをはせました。

 横浜と長崎のように、神戸のユダヤ人コミュニティーも19世紀後半に外国貿易のためにやって来た人々によって開かれました。ユダヤ人貿易商がここに住み、1912年に最初のシナゴーグが建てられました。日露戦争の影響でロシア貿易に頼っていた長崎の地位は低下し、長崎の多くのユダヤ人たちは神戸に移っていきました。もう一つの流れは、1923年の関東大震災によるものです。横浜をはじめ関東にいたユダヤ人たちも神戸に移ってきました。

予期せぬ流れは、第2次世界大戦初頭、欧州のホロコーストから逃げてきたユダヤ人たちです。神戸のコミュニティーは、これらの人々を受け入れ始めました。これは当時リトアニアの外交官であった杉原千畝氏のおかげで逃げ延びたユダヤ人たちです。約6000人のユダヤ人難民たちがナチスから逃れて敦賀港に到着し、神戸で保護されました。このうち約1000人は神戸を経由して世界の別の場所に安全に行くことができました。今でも彼らは、杉原氏に感謝の気持ちでいっぱいです。

 当時、神戸のユダヤ人たちは、ほかの外国人たちと隣り合って暮らしていました。1920年代から30年代にかけての神戸は本当の国際都市でした。いろいろな商人コミュニティーと多様な文化的影響がありました、インド人、アルメニア人、ロシア人、中国人など、異なる民族的背景や宗教の人々がともに暮らしていました。漫画家・手塚治虫氏の作品「アドルフに告ぐ」のなかで、この神戸の国際都市の性格が描かれています。作品は、神戸を舞台に、アドルフという同じ名前のユダヤ人とドイツ人の仲のいい少年たちが登場します。その後第2次世界大戦が欧州で勃発し、2人の少年は敵味方に分かれました。1920年代半ばから1950年代まで、神戸のユダヤ人コミュニティーはロシア、欧州、イラクから来た多くのユダヤ人が暮らす、日本最大のコミュニティーでした。現在でも、神戸に健在するユダヤ人コミュニティーによって、印象的なシナゴーグと墓地が守られています。

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