横浜港からそう遠くはない山手の丘の上にある「外国人墓地」の片隅に、ユダヤ人たちの墓があります。この横浜の外国人墓地は、1859年に設置されました。それは諸外国との交易のために開港してからすぐのことでした。江戸幕府の200年余の鎖国後、19世紀半ばの開国に伴って日本にやって来た外国人の開拓者たちが葬られた墓地です。その中に、何人かのユダヤ人の墓もあります。そしてこれは、近代にユダヤ人と日本人が出会った証拠でもあります。
近代において、ユダヤ人が来日し始めたのは、1853年に米国のペリー提督が開国を迫った幕末の時代です。この時のユダヤ人は米国、ロシア、ポーランドの出身者でしたが、何人かはインドやバグダッド、隣国の中国、香港、シンガポールなどを経由して来日しました。これらのユダヤ人たちはビジネスチャンスを求めて、成長する可能性がある極東貿易のためにやって来たのです。また第2次世界大戦中の欧州からは、ホロコーストを逃れてやって来たユダヤ人たちもいました。来日したユダヤ人の多くは日本に家を構え、生活基盤となるユダヤ人コミュニティーを東京、そして神戸、長崎に設立しました。
歴史的にユダヤ人は貿易に従事することのみ許可されていた時代が長かったため、日本に来たユダヤ人たちが交易を始めたのは特別なことではありませんでした。母国がないまま「離散」という状況を何世紀も続けたユダヤ人たちは、マイノリティー(少数派)としていろいろな地で生きてきました。その歴史は、しばしばその存在を侵害されたり、土地への定住を拒否されたりしてきたのです。貿易業は一カ所に定住しなくとも、ユダヤ人たちが繁栄することを可能にしました。また異なる地を旅することで、ユダヤ人は異文化や異国の言語を習得しました。そして多くの都市や国で築いた人間関係を広げて、国際交易で優位に立つことができるようになりました。
近代になって横浜に最初に来たユダヤ人として知られているのがマークス兄弟です。彼らは英国から1861年に来日しました。徳川幕府によって外国人居留地として設定された小さな漁村、横浜に定住しました。マークス兄弟も貿易に従事し、特にオーストラリアから木材輸入を行っていました。兄弟のひとり、アレキサンダー・マークスはロンドンで発行されていた新聞「ジューイッシュ・クロニクル」に、日本とその文化について紹介する記事を書いています。彼は最終的にオーストラリアで最初の対日本の総領事を15年間務めました。彼の2人の弟たちは、不幸にも1871年、蒸気船ジュリアで横浜から太平洋の島に航海する途中で行方不明になりました。
ラファエル・ショイヤーは米国ボルチモア生まれのユダヤ系米国人の商人で、日本におけるユダヤ人開拓者の一人です。彼は1861年に横浜に定住し、貿易だけでなく、「ジャパン・エキスプレス」という日本で最初の英字新聞を発行しました。また数年間、外国人自治区の代表も務めました。
彼は横浜の外国人墓地のユダヤ人区画に埋葬されています。その隣には、この時代の興味深い人物の墓があります。それがチャールズ・リチャードソンです。彼は1862年9月におきた生麦事件で亡くなったことで知られています。この事件は、4人の英国人(男3人女1人)が、横浜から川崎大師(川崎市)に向かう途中で起きた事件です。今の横浜市鶴見区にある生麦付近で、薩摩藩の島津久光公とその家臣団の隊列と出会いました。4人の英国人はこの著名な一行に対して馬から下りて道を譲ることをしませんでした。この態度は当時たいへん不敬な態度に受け取られ、怒った侍たちは切りつけ、2人が負傷し、リチャードソンは殺されました。
英国はこの事件を知って怒り心頭に発し、一年後に砲艦を派遣して薩摩の中心地、鹿児島を砲撃しました。また薩摩藩と幕府に巨額の賠償金も請求しました。リチャードソンはユダヤ人ではありませんが、彼が埋葬された一角はのちに、私が以前このコラムに書いたユダヤ人ビジネス王、シャウル・アイゼンバーグの援助で、この区画を東京のユダヤ人コミュニティーが一括購入したからです。
Nissim Otmazgin
イスラエル・ヘブライ大学教授が語る、戦時下の学部長の深い悩み