実はとても気を使ったのだ。私たちが行くことは物見遊山ととられるのではないかと。しかし市長はきっぱりと言った。
「それでもいいのです。ともかく来て見ていただきたい。忘れられることが一番悲しい」
ほっとした。現場を見ること、そして感じることが何より大切なのだ。
魚市場のあったあたりには、個人で獲った魚を売る人々がいた。みんな競って買った。その人が何気なく言った。
「何か魚を入れる袋がありますか?」
「何もないです。みんななくなりました」
私たちは絶句した。経験した人とそうでない人の差を噛みしめた。
駅のトイレには「水は最小限流して下さい」。被災地の現実は厳しい。
十年経っても復興の歩みは遅い。今回、旅館やレストランなどでは食器が割れ、コロナ禍の中、やっとオープンしたのに閉鎖せざるを得ないという。
ふと部屋の壁を見ると、油絵が趣味の父が描いた、母の肖像が大きくずれていた。
※週刊朝日 2021年3月5日号
■下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。主な著書に『家族という病』『極上の孤独』『年齢は捨てなさい』ほか多数。