中国政府が非武装の学生や一般市民を武力弾圧し、多数の死者を出した天安門事件によって中国は世界から非難を受け、孤立する。中国の外相を務めていた銭其シン元副首相が、回顧録で「西側の対中制裁を打破する目的があった」と明らかにしたように、中国を国際社会に復帰させる第一歩だった。当然、日本の国内世論も割れた。

 さらに、平成6(1994)年には、経済摩擦などで両国間が「戦後最悪」と揺れる渦中の米国訪問、平成10(98)年の英国、平成12(2000)年のオランダ訪問は、戦争の傷痕と対面する旅となった。英国で旧日本軍の元捕虜団体は、両陛下の馬車に背を向けシュプレヒコールを浴びせた。

 石井さんが振り返る。

「平成の前半の皇室は、政府の外交に巻き込まれた時期だった。国事に関するすべての行為に内閣の助言と承認を必要とする天皇として、政治の意思は受け止めざるを得ない。その一方で、たとえば天皇訪中には国内でも賛否がある。『日本国民の総意に基づく』地位にある者として、だれもが納得する訪中にしなければならない。そんな状況にあって、明仁天皇は国の象徴としての姿勢を完璧に保ち、やり遂げました。戦争と敗戦によって皇居は焼け、皇室解体の危機を目のあたりにした天皇は、皇太子時代から象徴とはどうあるべきか、と考え続けた。だからこそ、ぶれのない判断力とバランス感覚で、この修羅場を潜り抜けたのです」

 天皇ご一家の顔ぶれは、礼宮さまと川嶋紀子さん、徳仁皇太子と小和田雅子さん、紀宮さまの結婚眞子さま佳子さま愛子さま悠仁さまが誕生と増えていく。週刊朝日が出した臨時増刊号や写真集は、飛ぶように売れた。そしていま、令和の皇室が始動している。(本誌・永井貴子)

週刊朝日  2021年3月5日号