■「間違い」と「本質的に勉強が理解できない」は違う
子どもによって、個性も生まれ月も異なるのですから、勉強を理解していく速さもそれぞれ違います。ただ、小学1年生で習っている「ひとケタの足し算」を間違えたって、小学4年生になればみんな解けるようになっているでしょう。
息子がテストでバツになった問題を見ると、ひらがなの文字が反転しているとか、計算ミスばかりで、こうした間違いは「本質的に勉強が理解できていない」こととは違います。
もし中学校の期末テストや受験に関してなら、独学でも塾でも、個々に適した勉強の仕方で、点数が上げられるようがんばればいいと思います。でも、小学1年生のテストの「うっかりミス」によるささいな間違いに固執し、一つひとつ正していくことに、そこまで意義があるとは思えません。
私には、小学校の低学年は無理に勉強をさせることより、「勉強は嫌なもの」というマイナスの感情を抱かせないことのほうが、ずっと大切なことのように思えるのです。
そこで私は、「勉強しなさい」とは言わず、「勉強するといいよ」と言っています。「同じことじゃないか」と思う人がいるかもしれませんが、この二つは、言葉は似ていれどもまったく違うものなのです。
■勉強で得られるメリットを、とにかく伝える
「勉強するといいよ」というのは、「やらせる」ではなく「アドバイスをする」という立ち位置からの言葉で、勉強の内容に関してではなく、勉強で得られるメリットをとにかく伝えられるよう意識しています。
もちろん小学1年生ですから、難しいことはかみ砕いてわかりやすく話していますが、 主に「大きくなったとき自由が増えるよ」という意味合いのことをアピールするケースが多いです。
今の息子の夢は、「水を運ぶ人」なのだそうです。たまにデパートの通路などでウォーターサーバーの契約をとるために宣伝している人がいますが、「彼らの仕事に関わりたい」とのこと。
息子にとって販売員さんは、風船など子どもの喜ぶ物を無料でくれるうえ、のどがかわいたときにおいしいお水をくれる、優しい人なのだそうです。もちろん向こうは仕事なので、大人側からすると契約せずに風船だけもらうのは、やや忍びないのですが……。
そうした将来の夢を引き合いに出し、息子に向かって、「あの人たちは、大人になったときに、自分たちの会社に入っていいよって言うかな?」という疑問を投げかけます。
「たとえば漢字で『水』も書けない人が、お水の会社に入りたいって言っても、『この人は本当に水が好きなのか』と疑われて、入れてくれないんじゃないかな?」「それにお水を売るときはお金の計算もするから、算数だって、正確に速くできたほうがいいよね」。さらに言うなら、「会社に『入ってもいい』じゃなくて『ぜひ来てください』って言われるくらいになれば、絶対にその仕事につけるよね」といった感じです。