■除染と廃炉が心配で戻りたくても戻れない
対して日本は、「廃炉とは何をすることか」を真正面から議論することを避けてきた。結果、51年になってどんな状態であっても「廃炉は終了した」と言える状態をつくったと尾松さん。
「東電と政府に縛りが必要です。縛りを与えるのは、法律しかありません。法的定義を定めてこなかった国会の責任もありますが、国民も争点にしてきませんでした。ただ、チェルノブイリで廃炉法ができたのは事故から12年後。日本も、10年という節目で廃炉法の策定を議論し、まず次の衆院選で争点にしていく必要があります」(同)
廃炉の遅れは、地域の将来を左右し、住民の帰還にも直結する。
原発事故で避難を余儀なくされた福島県内の11市町村(※)に出された避難指示は、今は沿岸部を中心に7市町村(※)になり、面積も当初の約3割に当たる約337平方キロに縮小した。だが避難指示が解除された地域の居住率はわずか29.9%(2月現在)。17年3月に避難指示が一部解除された浪江町や大熊町は1割を切る。さらに、帰還する住民は65歳以上の高齢者が多く、川俣町山木屋地区では6割に達し、飯舘村、大熊町、楢葉町は5割以上と、「限界集落」と呼ばれるほどの数字になっている。
原発事故で浪江町から静岡県富士市に家族で移り住んだ堀川文夫さん(66)は、心情を吐露する。
「もちろん帰りたい。でも帰れない」
生まれ育った浪江は海も山もあり、自然豊かな場所だった。大学とその後の10年は東京で過ごし、浪江に戻り小中学生向けの塾を開いた。しかし、原発事故で何十年もかけて築いた自分の土台が奪われた。故郷を追われ、縁もゆかりもない今の場所に辿り着いた。
実家のあった場所は17年に避難指示解除となった。堀川さんにとって、浪江は自分の存在の全てだった。だがその町に、除染と廃炉が心配で戻りたくても戻れないと声を絞り出す。
「町の8割近くを占める山林の大部分は除染をしていません。廃炉はいつ終了するかわからず、冷却を続けている今も危機的状況にあり、同じような事故がいつ起きないとも限りません。子どもや孫も呼べないところに戻れない」
福島県郡山市から都内に自主避難している男性(40代)も、こう話す。
「廃炉が終わってもいないのに、田舎に帰るのはありえない。心が落ち着くのはまだまだ先です」
(編集部・野村昌二)
※AERA 2021年3月15日号より抜粋