人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、選択的夫婦別姓について。
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春先のせいもあって、なんとなくイライラしている。こんな時、自分を納得させるには、原因を冷静に考えることが必要だ。
思い当たった一つは、いつまでたっても選択的夫婦別姓の導入への動きが進まないこと。それどころかむしろ退歩しているとも思えること。
こんな国は他に存在しない。二〇一五年、最高裁の判決で夫婦同姓が合憲とされた時ですら、姓の問題は「国会で論じられ、判断されるべき」と付言されていたが、昨年末、閣議決定された男女共同参画基本計画には、選択的夫婦別姓の表記すらなくなっていたという。
なぜか。別姓になるとよほど具合の悪い人がいるのだろう。反対する人の多くは、家族の一体性がなくなるということを大きな理由にする。日本は家族制度を重んじる。その方が国として治めやすいからだ。家族は小さな国家であり、号令一下まとめる際には、こんな便利なものはない。
同姓だとまとまりやすく、別姓だとまとまりにくいと考える人は逆に家族という人間関係に自信が持てず、名前という形に頼りたいのだろう。
私はかねがね結婚して同姓になることの方が家族をそこねる面があると思ってきた。人の名前を、親がどのくらい真剣に考えてつけるか。その際は苗字に合う子供の名前を必死で探す。辞書をみたり、文学書を読んだり、中には占いにみてもらって幸運な名前をと考える場合もあるだろう。
私の名前は暁に生まれたので暁子。下重という苗字に合っていて気に入っている。それがやむを得ず変えたつれあいの姓ではしっくりこない。
五十年近く経っても誰のことかとよそよそしく、不便なだけではなく、そちらの名を書くたびに不快になる。私というこの世に一人しかない個が否定された気がするのだ。
男性の姓に統一されて、女性の苗字が変わる場合が多いから、女性側に不満が多いかというと、五輪相の丸川珠代さんのように、選択的夫婦別姓に賛成しないよう地方議員に呼び掛ける文書にわざわざ署名する女性議員もいる。人それぞれ考え方の違いがあっていいが、「選択的」なのだから、いやな人はやめればいいだけのこと。自分たちで選ぶという案に反対する意味がわからない。