政治学者の姜尚中さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、政治学的視点からアプローチします。
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政府は福島第一原発にたまる処理済みの汚染水を海洋放出する基本方針を決定しました。この汚染水には多核種除去設備(ALPS)でも取り除けない放射性物質のトリチウムが含まれていますが、それを希釈して海洋に放出しても「科学的には安全」というわけです。
2022年の秋以降に汚染水のタンクが満杯になることは分かっていたのですから、関係機関や当事者を網羅するフォーラムのようなものを設置し、対策を熟議すべきでした。こうしたやり方を見ていると日本の公害問題の原点というべき水俣病の経験が生かされているとは思えません。その轍を踏まないためにも、海洋放出を四つの論点から再考する必要があります。
一つめは「科学的なエビデンス」です。原発稼働国は国際基準にあわせてトリチウム水を放出しているので、風評被害の拡大を防げれば、これしか方法がないという選択肢があります。他方で放出が数十年に及ぶ以上、環境や生態系に全く影響がないと断言できるのか、懐疑的な見方もあります。
二つめは「信頼」です。一般の国民や周辺諸国の確固とした信頼を獲得できていない以上、信頼性の獲得に向けてどうしたらいいのかという問題です。
三つめは「公正性(社会的なジャスティス)」です。問題が起きた時の責任の所在、被害者の線引きはどうするのか。被害を被るに違いない漁業関係者や観光業者、その他の被害者が決定過程に参画する機会が与えられないまま一方的に決定が「天下る」ようなプロセスは、社会正義に反する疑いが残ります。さらに公正性という意味で言えば、なぜ福島だけに押しつけるのかという問題もあります。
四つめは、「正当性」です。今回の決定に問題がないならば、国際原子力機関(IAEA)のモニタリングを受け、徹底した情報公開を行い、日本の正当性を世界に発信すべきでしょう。そのことが周辺諸国の疑念や反対の声に応える重要な手立てになるはずです。
こうした問題を端折り「海洋放出ありき」で進むなら、内外へのハレーションは甚大にならざるを得ないでしょう。公害問題の歴史的な教訓が、今こそ生かされなければなりません。
姜尚中(カン・サンジュン)/1950年熊本市生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了後、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍
※AERA 2021年4月26日号