軍人や官僚にも容赦ない批判を浴びせる。

 この人気作家は、戦場で戦い死んでゆく兵士たちには最高の敬意を払うが、戦争の指導者たちの無責任ぶりには芹沢光治良と同じように怒りを隠さない。

 二人よりさらに年長になる永井荷風の『断腸亭日乗』(上・下 岩波文庫)は日記文学の傑作と誰もが認めるもの。荷風は徹底した軍人嫌い。加えて東京生まれの旧幕派として、薩長政府を蛇蝎のごとく嫌った。実生活での荷風は世俗を脱した世捨人を理想の生き方としたが、日記のなかではよく世相を観察し、社会批評を行っている。『断腸亭日乗』は一種の社会時評として読むことが出来る。

 日中戦争が始まり、次第に軍の力が強くなってゆく世にあって、日記には、軍部への批判が繰返されてゆく。二・二六事件によって、国民が軍に恐怖を感じ、反抗の気力を失ってゆく姿を憂える。

 とかく好色文学の書き手と見られる荷風だが、日記に書かれた軍国主義批判はやはり明治の硬骨漢の気概が見てとれる。士農工商でいえば荷風は、その引き締まった文章からもわかるように明らかに「士の文学者」である。

 代表作『ぼく(=さんずいに「墨」)東綺譚』は昭和十二年、日中戦争の始まる年に「朝日新聞」に発表された。戦争へと向かってゆく時代に、玉の井という私娼窟で暮す女性を主人公にした。

 単なる好色というのではない。荷風は軍国主義の強権に、女性のたおやかさを対置させた。軍人より私娼こそを愛した。

 第二次世界大戦が始まると、ほとんどの日本人がドイツびいきだったのに対し、荷風はフランスの勝利をひそかに願った。ドイツの「武力」よりフランスの「文化」を愛した。

 意外な事実がある。

 大佛次郎が昭和十九年の日記で興味深いことを書いている。戦時下にあって荷風文学はよく読まれたという。特攻隊を讃えたその日の日記に、荷風はひかげの文学だからよく読まれると書いている。「力にはならぬが荷風には人が慰められるのである」

週刊朝日  2021年5月21日号

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