徳川慶喜が大政奉還した二条城=京都市中京区(c)朝日新聞社
徳川慶喜が大政奉還した二条城=京都市中京区(c)朝日新聞社
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 大河ドラマ「青天を衝け」でも話題の徳川十五代将軍・慶喜。「神君・家康公の再来」と期待されながら、徹底抗戦せずに幕府を終焉させた慶喜とはどんな人物だったのか。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 14』では、徳川将軍を大解剖した。(前回の記事「神君・家康公の再来と期待された「徳川慶喜」は、なぜ大政奉還を決断したのか?」から続く)

【イラスト解説】実は忙しかった「徳川将軍の1日」スケジュールはこうだ!

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 王政復古による新政府の樹立では、新たに総裁、議定、参与による人事が決められている。総裁は、有栖川宮熾仁親王で、議定には公家のほか、薩摩藩の島津忠義、尾張藩の徳川慶勝、広島藩の浅野長勲、福井藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂がつき、参与には、岩倉のほか、大久保や西郷も選ばれている。その一方、慶喜は将軍職を失い、京都守護職の会津藩主・松平容保と京都所司代の桑名藩主・松平定敬も罷免となった。

 ただ、政変が起こることを慶喜が知らなかったわけではないらしい。それでも、議定に就任することができれば、復権は可能とみていたようである。王政復古の大号令を二条城で知った慶喜は、十二月十二日深夜に二条城を出立すると、翌十三日、大坂城に入城した。新政府に対して恭順の意思を、自ら示したのである。

 しかし、慶喜の議定就任も、武力倒幕を目指す薩摩藩には、受け容れられなかった。薩摩藩は、十二月二十三日夜、江戸の市中を警備していた庄内藩の屯所を銃撃するなど、旧幕府側を挑発。同時期に江戸城二の丸御殿が火事で焼失しているが、これも薩摩藩による放火とされている。これに対し、旧幕府側は薩摩藩上屋敷に潜む浪士を捕縛すると称し、十二月二十五日の早朝、庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちした。この一件は、早くも十二月二十八日、大坂城にいる徳川慶喜にも伝えられている。

 慶応四年(1868)正月一日、大坂城に入っていた慶喜は、薩摩藩の横暴を朝廷に訴えるとともに、在京の薩摩藩兵を追放するべく上洛することにした。二日、旧幕府軍は、老中格の松平(大河内)正質を総督に、会津・桑名藩兵らを主力とする軍勢を派遣。慶喜は、議定就任の内諾は得ており、武力でもって薩摩藩を排除すれば、政権に復帰できると考えていたのである。

 老中・稲葉正邦の淀城を宿営とした幕府軍は三日、2隊にわかれて鳥羽街道と伏見街道から北上。一方、新政府軍は薩摩藩を主力に、長州藩と一部の土佐藩兵が加わり、鳥羽と伏見で、旧幕府軍の入京を阻止しようとして待ち構えた。このため、鳥羽・伏見において旧幕府軍と新政府軍との戦闘がおこったのである。

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