神君・家康公の再来と期待された「徳川慶喜」は、なぜ大政奉還を決断したのか? (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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神君・家康公の再来と期待された「徳川慶喜」は、なぜ大政奉還を決断したのか?

小和田泰経dot.#歴史道
十五代将軍・徳川慶喜/水戸藩主徳川斉昭の七男で一橋家を継ぐ。将軍継嗣問題では家茂に敗れ、安政の大獄で隠居・謹慎処分となる。桜田門外の変後に家茂の後見職となり、その死後、十五代将軍となった(gettyimages)

十五代将軍・徳川慶喜/水戸藩主徳川斉昭の七男で一橋家を継ぐ。将軍継嗣問題では家茂に敗れ、安政の大獄で隠居・謹慎処分となる。桜田門外の変後に家茂の後見職となり、その死後、十五代将軍となった(gettyimages)

 大河ドラマ「青天を衝け」でも話題の徳川十五代将軍・慶喜。「神君・家康公の再来」と期待されながら、徹底抗戦せずに幕府を終焉させた慶喜とはどんな人物だったのか。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 14』では、徳川将軍を大解剖。ここでは「王政復古の大号令」までを解き明かす。

【イラスト解説】実は忙しかった「徳川将軍の1日」スケジュールはこうだ!

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 慶喜は、水戸藩主であった徳川斉昭の七男で、母は有栖川宮織仁親王の王女である吉子女王だった。江戸の小石川にあった水戸藩邸に生まれ、その後は、水戸城で育ち、藩校の弘道館でも学んでいる。若かりし頃から「聡明」で知られていたという。弘化四年(1847)には、十二代将軍・徳川家慶の意向を受けて一橋徳川家を相続。慶喜と名乗るようになったのも、この時に家慶の偏諱(へんき)を授かってからのことだった。

 家慶の死後、家定が十三代将軍となるものの、家定には実子がおらず、慶喜は将軍継嗣争いに巻き込まれてしまう。

 将軍の継嗣には血統が重んじられていたため、十一代将軍・家斉や十二代将軍・家慶との血縁にない慶喜は、不利であったのは間違いない。家斉の孫で南紀派が推す慶福に対し、利点となるのが「聡明」ということだった。家慶には実子の家定がいたものの、「聡明」な慶喜を継嗣にする意向もあったというが、実際のところはわからない。いずれにしても、一橋派は、「聡明」であることを根拠に将軍継嗣として推すしかなかった。このときは結局、大老となった井伊直弼の強権により、紀伊藩主の慶福が家茂と名を改めて将軍継嗣となっている。

 家茂が十四代将軍になってから、慶喜は将軍後見職として朝廷との折衝にもあたり、主に京都において活躍した。元治元年(1864)三月に将軍後見職を辞任すると、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命されている。これは、御所と大坂湾を防備する役職だった。

 この年の七月に禁門の変がおこり、長州藩は朝敵とされる。第一次長州征討は長州藩の降伏で終わったものの、慶応二年(1866)の第二次長州征討では薩摩藩が長州藩に味方したため、幕府軍が敗北してしまう。しかも家茂が、大坂城で陣没してしまったのである。


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