シベリアの収容所で一人寂しく果てた山本幡男(はたお)。その遺書を、収容所の仲間たちが、ソ連兵に見つかってとりあげられてもいいよう、分担して暗記する。山本が亡くなった2年半後の1957年1月半ば、そのうちの一人が大宮に住む山本の妻モジミのもとを訪ね、暗記した遺書の中身を謡うように伝える。以降も他の抑留者が次々に、母や子どもたち、そして妻への遺書を口頭で届ける。
<妻よ!よくやった。実によくやった。夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た>
公開中の映画『ラーゲリより愛を込めて』のラストシーンは感動的だ。ノンフィクション作家辺見じゅん(2011年没)の書いた原作『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(1989年6月 文藝春秋刊)は大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞したこともあり、映画になる前にも、テレビドラマ等でこのシーンはたびたび再現されてきた。
ところが、山本モジミに遺書を最初に届けたのは、ラーゲリで必死の思いで暗記した抑留からの帰国者たちではなかったのである。
実は、その一年以上前の1955年10月に当時の社会党議員戸叶(とかの)里子によって四通の遺書は、完全な形でモジミのもとに届けられていた。
そのことは、辺見の『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』には一行も触れられていない。
新春合併号で、映画と原作の違いについてとりあげたが、私にとってこの衝撃の事実を知らせてくれたのは、文藝春秋時代の元同僚。「しもちゃん、山本幡男の長男が本を出したわよ。面白いから読んでみれば」
そう言われて手にとった『寒い国のラーゲリで父は死んだ』(山本顕一著 バジリコ刊)の冒頭に、そのことが書かれているのだ。
にわかに信じられず、埼玉のふじみ野に住む山本顕一に会ってきた。彼は、戸叶議員が、ハバロフスクの収容所を視察した後、香港で日本人記者に会見した際の古い新聞記事も持っていた。