山本幡男の長男山本顕一。埼玉県ふじみ野で。
山本幡男の長男山本顕一。埼玉県ふじみ野で。

 毎日新聞1955年10月7日付のその記事には、ハバロフスク戦犯収容所を訪れた議員団が託された手紙や遺書は911通あったといい、「埼玉県大宮市ろうあ学校気付山本モジミさんにあてた山本幡男氏の遺書は異国の地に妻を恋いつつ去ってゆく夫の涙あふるる別離の言葉が書きつらねてあった」とリードに謳い、遺書の中身が要約して紹介されている。

「辺見さんもそのことを知っていました。なので、『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』が1989年6月に文藝春秋から出された時、私も読みましたが『あれっ?』と思った。戸叶さんが母の勤めていた大宮のろう学校をわざわざ訪ねてきて、遺書を手渡したことは、本を感動的にするためにあえて触れなかったのかな、と」

 収容所内の誰かが書き写したその遺書(山本のオリジナルのものではなかった)が大宮のろう学校にいるモジミに手渡されたのは、1955年の10月。モジミが家に持って帰ってきた遺書は四通あり、そのうち「子供等へ」と書かれた自分宛の遺書を読んだこともよく覚えている、という。その頃、東大に通っていたが、「遺書が言うような立派な人生を自分が歩けるのかな」と思ったと。

 収容所からの帰国者の一人が、分担した遺書の中身を最初に届けたのは、それから1年3カ月後の1957年1月半ばである。ほどなくして「子供等へ」そして「妻よ!」の遺書が別々の帰国者から届くが、これらの遺書が届いた時、モジミや子供たちは、遺書の中身を既に知っていたのである。

 そのことを、文藝春秋の担当者は了解していただろうか? 再度、当時『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を担当していた藤沢隆志に聞いたが、藤沢は、驚くばかりでまったく知らなかった。

「しかしそのことを知っていたら自分も困っただろうな。遺書が実は一年以上前に届いていたことを書く書かないでは、帰国者たちが三々五々、暗記した遺書を届けたという事実の重みが違って見える」

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