今年のHHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一とともに、2024年度に発行される予定の新紙幣の肖像として取り上げられるのが、北里柴三郎である。
北里柴三郎は、現在の北里大学の創始者であり、日本医師会の創立者で初代会長でもある。日本細菌学の父とも呼ばれ、ペスト菌の発見や破傷風の治療方法などを考案し、多くの人たちの命を救った人物である。現在の千円札の肖像である野口英世は、北里研究所の研究員だったこともあり、野口は北里の弟子にあたるのだ。
●日本の医療のためにと留学先から帰国
肥後国(熊本県)の庄屋の家に生まれた北里柴三郎は、東京医学校(現在の東京大学医学部)へ進み、明治18(1885)年にドイツ・ベルリン大学へ留学した。ここで近代細菌学の開祖と呼ばれるロベルト・コッホに師事、生涯コッホを尊崇し続けた。優秀だった北里は、欧米各国の大学から招聘を受けるが、「日本の医療の改善と国民を救うために国費で留学している」として6年で帰国、福沢諭吉の計らいで、日本で最初の伝染病の研究施設・国立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の初代所長へ迎え入れられた。
●北里によって建立されたコッホ祠
北里はコッホを日本へ招きたいと思い、帰国後15年たってようやく来日が実現した。この時、結核菌の研究でノーベル賞を受賞していた彼は、日本で国賓級の扱いを受け、74日間の滞在期間中各地で熱烈に歓迎された。この時、北里はコッホの散髪に付き合い、切られた髪を拾い集めたというエピソードがあるほど、北里にとってのコッホは大事な人物だったのである。
来日から2年後の1910年5月27日、66歳となったコッホはドイツで没する。これを聞いた北里は嘆き悲しみ、まもなく、国立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の一画にコッホの髪を納めた総檜造りの祠を建立、恩師を偲んだ。
●コッホ祠の隣に神となった北里祠が
その後、北里は各種の軋轢から国立伝染病研究所の所長を辞し、コッホ祠も自らが設立した北里研究所(港区白金)の敷地内に遷宮させることになる。北里はこの年のコッホの命日に例祭を催行している。昭和6(1931)年6月13日に北里が80歳で亡くなると、今度は門下生たちがコッホ祠の隣に、北里祠を作り神さまとして祀った。残念なことに、第二次世界大戦中の空襲で、北里祠のほうは焼失してしまい、戦火から逃れたコッホ祠に北里柴三郎は合祀されることにはなったが、以来、守護神としてコッホ・北里は、北里研究所を見守ってきた。