その前に幼児とは一体何者か、ということを考えてみる必要がありそうだ。幼児には社会性もなく、金を儲けて企業を起こす能力もない。そのような行動の目的性はない。ものの良し悪しの分別もない。肉体と精神の赴くままに行動して、その行動の全てが遊びと直結している。このように幼児の性癖について述べていくと、幼児の存在はそのまま芸術の核について語っていることに気づく。

 三島さんが本屋の店頭で、こっそり幼年期の憧れの対象であった冒険小説の世界を描きたかったとおっしゃるが、多分、バローズの『ターザン』やハガードの『洞窟の女王』を念頭においておられたのだと思う。残念ながら三島さんの少年時代の夢の復活は実現しなかったが、そんな三島さんの夢を、どうやら僕が代わって絵画や版画の中で実現しているような気がしないでもない。

「大人になりたくない症候群」の僕は、できれば永遠に子供の魂の中に宿ったまま、インファンテリズムの精神を貫き通したいと思っている。大人になるということは理屈の世界で生きることである。大人が理屈のユニホームを着たがるのは、一種の自己防衛ではないだろうか。絵は理屈ではない、絵は絵であって、芸術家が理屈をこねはじめ、芸術を概念化しはじめると、芸術から遊びを失うことになる。大衆は理屈では生きていけない。芸術に限らず、人生からワクワク、ドキドキが消えてしまうと、それに代わって人生を理屈にすり替えてしまい、自分を次第に小さい存在にしてしまって、自分の中から完全にインファンテリズムを追い出してしまうことになる。

 僕が中学の頃、密林冒険小説の第一人者の南洋一郎さんの最高傑作『バルーバの冒険』全六巻が発刊されたが五巻が出たところで出版社の倒産で五巻のままで終わってしまった。バルーバの熱狂的なファンは宙吊りのまま40年以上経った頃、別の出版社から、南洋一郎集が出版され、最終巻の六巻を含む全六巻が奇跡的に刊行された。しかし作家の南洋一郎さんはすでに鬼籍の人となっておられた。

 40年ぶりに『バルーバの冒険』が僕の中で完結するという喜びに僕は興奮したが、その時、僕の中で「待った!」という声が聴こえた。『バルーバ』を読了するということは僕の中のインファンテリズムを殺すことになる。70年間、待った僕の中の子供性はこの本を読むことで一瞬に無化されてしまう。できれば死の寸前まで「大人になりたくない症候群」でいたい。だから、いまだに『バルーバの冒険』は僕の手の届くところにありながら、まだ手をつけていない。できればインファンテリズムを冥土まで道づれにしたいのである。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

週刊朝日  2022年12月16日号

[AERA最新号はこちら]