死球も辞さないケンカ投法といえば、かつては東尾修(西武)の代名詞だったが、1990年代以降は、「死球なんて関係ないぜ!」とばかりに内角をゴリゴリえぐる“ご意見無用”の助っ人投手も目立つようになった。
最も記憶に残る男は、01年から日本で8年間プレーしたジェレミー・パウエルだ。
近鉄時代の02年、強気の内角攻めとカーブを武器にリーグ最多の17勝を挙げたが、92年の野茂英雄(近鉄)以来のリーグ最多タイ、18勝目がかかった10月10日のロッテ戦で死球騒動の主人公となる。
4対1とリードしたのもつかの間、12安打を許し、6回に逆転されたパウエルは7回、思いどおりの投球ができない苛立ちからか、堀幸一、初芝清に連続死球。3回にもサブローにぶつけており、1試合で3個の死球は、当然ロッテ側の怒りを買った。
たちまち両軍ナインが飛び出し、乱闘のゴングが鳴る。パウエルも山下徳人コーチに掴みかかって殴り合いを演じ、暴力行為で退場処分。もちろん、18勝目もパーになった。
パウエルを語るうえで、欠かすことができないのが、山崎武司との因縁対決だ。
オリックス時代(当時の登録名はJP)の05年4月8日の楽天戦で山崎を死球退場させたのが、すべての始まりだった。
第二幕は翌06年。巨人に移籍したパウエルは5月21日の楽天戦で、5対0の7回にフェルナンデスの一発を浴びたあと、平常心を失ったのか、山崎の右手を直撃する死球。怒った山崎は「(去年に続いて)2回目だろ!」と指2本を立て、マウンドににじり寄った。だが、パウエルは「WHY!」と叫び、詫びる素振りも見せない。「交代(退場)とか処分になったら、(好投が)もったいないから」と小久保裕紀らが間に入り、乱闘は回避されたものの、警告試合が宣告された。
そして、2度あることは3度あった。ソフトバンク時代の08年4月22日の楽天戦、3回2死、パウエルの初球が山崎の腰付近を襲う。腰を引いて避けようとした山崎だったが、ベルトをかすめる死球になった。