「憲法違反」の指摘がクリシェでしかないことへの無自覚は、2016年の「おことば」の意味するところを読み取ろうとする際の思考の怠惰がいまも引き続いていることから生じたものだ。先の天皇にせよ、今上天皇にせよ、自らの言動が「憲法違反」の批判を招きかねないことなど、百も承知しているであろう。そして、このお二人は、折に触れて戦後憲法への心からのコミットメントを表明してきたのであり、その点で、安倍に代表される自称保守派と対極にある。「おことば」でも今回の「懸念」においても、そうした人物が、あえて「憲法違反」と批判されるリスクを冒して発言したのである。その意味は、いままでほとんど論じられてさえいない。
してみれば、今回、今上天皇が「懸念」を「拝察」させなければならない状況を迎えたのも、あの「おことば」を日本社会が真っ当に受け取らなかった、受け止め損ねた結果なのである。「おことば」は、日本社会の大半から好意的に受け止められたにもかかわらず、そうなのだ。
当時を思い起こせば、「おことば」の出現によって不意打ちを喰わされたかたちとなった安倍政権は、天皇に復讐した。「おことば」のなかで天皇が「公務縮小によって高齢化問題に対処する」ことを明瞭に否定したにもかかわらず、政権が設置したのは「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」であり、そこに集められた安倍晋三お気に入りの「有識者」たちのあいだでは天皇の考えに対する否定的な言辞が飛び交わされた。
確かに、日本社会の世論は、こうした安倍政権の対応とは反対に、天皇の譲位の意思を是とした。しかし、その動機は、天皇の長年の働きに対する感謝と高齢者に対する労いでしかなく、「おことば」に滲んでいた強い危機感を察知し、それに応えた結果ではなかった。
筆者は『国体論』で「おことば」の核心部を次のように分析した。すなわち、「象徴としての役割を果たす」といった表現が繰り返し強調されたが、それは天皇から国民への問い掛けなのだ、と。象徴天皇とは「国民統合」の象徴であり、したがって、日本国民が「統合」を維持しようと望んでいないのならば、「統合の象徴」もあり得ず、天皇は無用になる。そして、その全体が「戦後の国体」の崩壊期たる平成時代は、国民統合が崩れ落ちて行った時代だった。まさにそうした時代の幕引きを意図しつつ、天皇は「皆さんに統合を回復・維持したいという意思はあるのか」と問い掛けたのだった。