もう一つの「案の定」について述べておかねばならない。「五輪の開催の是非という政治的問題について天皇が発言するのは憲法違反だ」という批判が、右派からもリベラル派からも出てきた。この光景も馴染みのものだ。それは2016年夏の天皇(現上皇)の「おことば」に対する反応の反復にほかならないからだ。



 平成時代に安倍政権と天皇・皇后との確執が表面化して以来、政権支持のウヨクが天皇に対し歯牙にもかけない態度をとっている(ほとんど無意識のレベルで彼らにとっての天皇は皇居にいる天皇ではなく、アメリカである)ことにはいまや何ら驚くべきものはないが、今回「憲法違反」を口にしたリベラル派は再び思考停止をさらけ出したと評さねばならない。

「オリンピック、パラリンピックの開催が、感染拡大につながらないか心配だ」というメッセージは、五輪を「やれ」とも「やるな」とも言っていない。国民の誰もが懐いている当然の懸念を述べたものにすぎない。「拝察」は、菅総理による内奏が行なわれてからわずか2日後に出てきた。内奏では東京五輪と新型コロナ対策が話題になったと推せられるが、菅の話に天皇は安心するどころか不安を高められたのであろう。

 そしてそもそも、天皇は東京五輪に対して局外者ではない。天皇は東京五輪の名誉総裁であり、慣例に従えば、開会式で開会を宣言する立場にある。つまり、このまま何の意思表示もしなければ、天皇はこの呪われた大会の加担者に自動的になってしまう。そして、言うまでもなく、五輪は政治的なイベントだ。とりわけこの東京五輪は、安倍・菅政権によって国民の健康リスクを一顧だにせず国威発揚と権力維持の目論見のために利用されてきた。そんな行事に加担することと、感染拡大への懸念を表明することと、どちらが「政治的」なのか。

 もちろん、「懸念」が何らかの政治的効果を持つならば、それは政治的行為になりうる。だが、一人の人間として当然の、悪に加担したくないという意思の表示をも政治的効果の可能性から憲法違反として禁じるべきと考える言論人は、天皇制廃止を真っ直ぐに主張すべきだろう。天皇が何を言っても言わなくても、その存在の政治的意味はゼロにはならないからだ。ところが大方のリベラル派は世論に配慮して「天皇をなくせ」とは言わない。他方で彼らが良識派と世間から見られたい欲望は人一倍強い。かくて、世間への配慮と優等生願望が足し合わされて、「憲法違反」の決まり文句にたどり着く。そこにあるのは、言論の怯懦と頽廃にほかならない。
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2016年の「おことば」を受け止め損ねた日本社会