明治維新(1868年)から大日本帝国の崩壊(1945年)までが、77年間。敗戦から現在までが76年間。間もなく「戦前」と「戦後」の時間量は等しくなる。してみれば、太平洋戦争によって戦前の「国体」が崩壊への道を驀進して行ったのを反復するように、日本の新型コロナ対応は失策に失策を重ねる一方、あの戦争のとき最後の瞬間まで「国体護持」が至上命令とされて犠牲を増やし続けたのと同様に、「東京2020」は他のすべてに優越して守られなければならないものとして、現代日本の支配権力によって強行されようとしている。
だが、すでにある意味で結果は見えた。この五輪は惨憺たるものに終わるか、最後までやり通すことすらできないだろう。そしてその過程で、現在の日本の政治・経済のエリートたちが運営している統治システムはすでに崩壊している、またそのような支配を是認してきた日本社会全般が無気力・怯懦の極みにあるという現実を、明白に見せつけられるだろう。われわれはいま、「国体」の2度目の死を経験しつつあるのだ。
さて、周知のように、あの戦争をついに終わらせたのは、昭和天皇の「聖断」だった。国家指導部の誰もが本音では「本土決戦など無理だ」とわかっていたにもかかわらずそれを口にすることができず、決断不能状態に陥るなかで、「誰もしたがらない仕事」を果たす役割は、最後は天皇に振られた。
その故事に鑑みれば、6月24日に飛び出した西村泰彦宮内庁長官による「天皇陛下は新型コロナウイルスの感染状況を大変心配されている。オリンピック、パラリンピックの開催が、感染拡大につながらないか、ご心配であると拝察している」との発言は、意味深長なものとして現れた。
この発言に関してはさまざまな論評がなされているが、基本的な事実から押さえておこう。「拝察」は、事実上の天皇のメッセージである。これに対して、菅義偉総理、加藤勝信官房長官ら政府首脳は「西村長官の個人的見解」であるとの受け止めを明らかにした。言い換えれば、西村長官は自分の主観的印象にすぎぬものを「天皇陛下の意思である」と述べたと見なしている、というのだ。仮にそのように認識しているのだとすれば、菅は西村長官を即座に解任しなければならない。案の定と言うべきか、この論点をつめて菅や加藤に問い質したマスコミは皆無であった。政権首脳は言った瞬間から単なる言い逃れにすぎないとわかる言葉を口にし、取り巻き記者たちは誰も追及しない。安倍政権以来お馴染みの光景が展開された。