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4日、横浜スタジアムで行なわれる東京五輪の野球準決勝で、侍ジャパンが「宿敵」韓国と激突する。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)やオリンピックなどの大舞台でしのぎを削ってきた両国だが、過去にはイチローの発言を韓国メディアが敵意むき出しで報じたり、「マウンドに太極旗事件」など日本に対する侮辱的な行為もたびたびあった。そんな日韓戦の、因縁の歴史を振り返る。
因縁の野球日韓戦。若い人には意外かもしれないが、その歴史は実は浅い。
全国紙のスポーツ担当デスクが解説する。
「そもそも野球の国際大会は、1990年代までは各国ともアマチュア選手で代表チームを構成しており、日韓も今のようなライバル関係にはありませんでした。むしろ国際大会で負け知らず、『アマ最強』と恐れられたキューバをどうにかして倒そうと必死だった時代です」
野球が五輪で正式種目となったのは1992年のバルセロナ五輪。2000年のシドニー五輪で、国際オリンピック委員会(IOC)がプロ野球選手の出場を初めて認めた。
「シドニー大会では、韓国がほぼ全員プロで代表を結成したのに対し、日本はプロアマ混成で、おせじにも最強チームとは言えない有り様でした。プロは、シーズン中に五輪があるためトップ選手を出すかどうかで各球団に温度差があり、特にセ・リーグの球団は冷たかった。大会前の代表合宿すらなくて、五輪に本気で挑むアマで固めたほうが良かったと訴える関係者もいましたね。ただ結局、格下の韓国に3位決定戦で負けメダルまで逃したこと。松坂(大輔=当時西武)らが悔し涙にまみれたことは日本球界にとって屈辱で、04年のアテネ五輪では長嶋茂雄氏に監督を託し、(※大会前に脳梗塞で倒れ、五輪では中畑清氏が監督代行に)、予選からプロのトップ選手で固めたチームでのぞみました」(前出のデスク)
そのアテネ五輪のアジア予選では、日本が韓国に快勝。ただ、韓国が五輪出場を逃し、大舞台で相まみえることはなかった。両国のライバル心に火がついたのは、やはり日本が初代王者となった2006年の第一回WBC。イチローの「30年発言」に端を発した一連の騒動だろう。