それにしても、これほど不祥事とスキャンダルにまみれたオリンピックがあっただろうか。
そのきっかけになった、森喜朗氏の女性差別発言を聞いたとき、私は二十代のころ勤めていた職場での上司を思い出した。親分肌で、上司としては決して悪い人ではなかったが、酒の席で酔うと女性社員の胸やお尻をなでて、「触ってあげなきゃ失礼だよ」と言うのだった。
四十年以上も前と、日本の男は少しも変っていなかった。それに続いて次から次へと出て来た、「問題発言」や、開会式の演出を巡る混乱と辞任劇。
見せられるこちらの方が目を覆いたくなる惨状だった。しかし、これがオリンピックという国際舞台で起ったことでなかったら、これほどの問題になっていただろうか。森氏の発言など、ただのジョーク(笑えないが)ですんでいただろう。
おそらく、一連の出来事で批判された人々は表向き謝罪しても、内心では「外国のメディアが大げさに取り上げたからだ」と苦々しく思っていただろう。
そういう本音を含めて、今回のオリンピックをめぐる一連の混乱は、文字通り今の日本の縮図と言って良かった。何でも自分の思い通りにして、周囲からはほめられたことしかない人々と、それを形にした大手広告代理店の相互依存の骨組をレントゲン写真のように明白にしたのだ。
聖火ランナーの前を巨大な宣伝カーが行進する光景を見て、恥ずかしいと感じなかった人々が、コロナ禍にオリンピックを強行開催したのだった。
私は、今度のオリンピックの残した最大の傷は(もちろんコロナの感染拡大もあるが)、日本のジャーナリズムの敗北だったと思う。
安倍さんの「アンダーコントロール」発言から、日本のジャーナリズムはその問題点を指摘して広く世界に発信すべきだった。原発はいつ再び地震で事故を起すか分らず、七月の猛暑を変える手段などどこにもないということを。
さらに、新型コロナという人類史上にも例のない、世界同時感染の恐怖がやって来て、特にヨーロッパでは埋葬すら間に合わないほどの死者が出たときも、日本で「オリンピックを中止すべき」という声は上らなかった。日本のジャーナリズムは日に日に内向きになり、「明日は我が身」と考えることさえしなかった。