東京パラリンピック招致成功から8年。待ち望んだ大舞台に選手たちは挑んでいる。復帰したベテランや開催決定を機に競技を始めた選手。それぞれの思いがある。AERA 2021年9月6日号の記事を紹介する。
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「TOKYO!!」
2013年9月、国際オリンピック委員会(IOC)総会で、ジャック・ロゲ会長(当時)が20年夏季大会の東京開催を発表した。それから8年。パラアスリートたちはさまざまな思いを抱いて大会に挑んでいる。
「あきらめないで、よかった」
開幕1週間前の8月17日にあった日本選手団の結団式で、開会式の旗手・谷真海(39)は喜びをかみしめていた。
8年前のIOC総会で、谷は東京招致に向けた最終プレゼンテーションのトップバッターとしてスピーチに立った。
19歳のときに骨肉腫を発症し、右足のひざ下を失った自分が、パラ陸上と出合って自信を取り戻していったこと、東日本大震災の津波が故郷の宮城県気仙沼市を襲ったこと、そして被災地の子どもたちがスポーツを通して笑顔を取り戻していったこと。「スポーツの力」を情熱的に訴えたスピーチは、招致成功の大きな原動力になった。
その後、結婚と出産を経験。子どもが1歳を迎えた16年に競技復帰を決意し、トライアスロンを始めた。瞬発力を生かした走り幅跳びでパラリンピックに3回出場していたが、持久力が必要とされる競技のほうが年齢を重ねても続けていけると考えたことも転向の理由だった。
仕事と子育ての両立に加え、スイム、バイク(自転車)、ラン3種目の練習の時間を確保するのは簡単ではなかった。
それでも、子どもの頃から親しんでいた水泳と、右足のひざ下を切断してから10年以上続けてきた陸上の経験を武器に、翌年の17年には世界選手権で優勝。東京大会の金メダルも照準に入ってきた。
■震災から10年の節目
そんな矢先の18年、谷の障害クラスが東京大会の実施種目から外れ、出場の道が閉ざされた。落胆し、練習が手につかない時期もあったという。約4カ月後に障害の軽いクラスとの混合で実施されることになったが、選考レースは厳しいものとなった。それでもあきらめなかった。
昨年、新型コロナウイルスの感染拡大で、東京大会が1年延期された。練習もままならない日々が続き、スポーツは不要不急のものとして厳しい目が向けられた。