「香織ちゃんのあの場面は、ノンフィクション。私たちの普段の稽古場そのままの景色ですよ。『障害者だから危なそう』と、ちょっとしたリスクでさえ排してしまえば、成長の機会を奪ってしまう。コミュニケーションを取って課題やリスクを共有し、つながることで、人やチームの成長につなげていく。こういう景色を街中でも当たり前にしていけると、私たちは信じているんです」(栗栖)

■日本での美術の成績は最悪 イタリアで高い評価得る

 栗栖は今、8月24日に開幕する東京パラリンピック開会式に向け準備に追われている。彼女は、このオリパラの開閉会式のパフォーマンスを創るために、一直線にキャリアを築いてきた。

 10年以上前から、様々なアート企画、事業で接点を持つ、祁答院弘智(けどういんひろとも)(50)は言う。

「栗栖さんは目標を定めたら、必ずゴールにまで持っていく。有言実行なんていうのは甘くて、彼女の場合、有言“決定”ぐらいの勢いなんですよ」

 東京都大田区で生まれ育った。母、昌世(70)は、子どもに欲しいものがあったら買わずに作って与える主義だった。母は裁縫や編み物が得意で、昔から家にミシン数台と、小さな織り機が備えてあった。取材時に栗栖が着ていた服も、「裂き織り」というモコモコした素材感のある布を昌世が手織りし、裁断して作ったというから、筋金入りだ。母の影響もあり、一人っ子の栗栖は幼い頃からものづくりに熱中していた。机や椅子の下など空間を見つけては、人形の家を作った。

「今思えば、遊びで空間演出をしていた」(栗栖)

 小・中・高校と、カトリック系の私立校に通う。講話で難民や環境問題などに触れる機会が多かった。栗栖は小学生の頃から「将来は平和に貢献する仕事がしたい」と考えていた。

 中高時代は、ダンスや舞台創作に燃えた。文化祭では、「アニー」「ウエストサイド物語」などのミュージカル演目を、レビューに仕立てた。学年で80人いる生徒の多くを巻き込み、舞台の演出を手がけた。舞台美術も栗栖が担当した。同級生の田中涼子は、学生時代を楽しげに振り返る。

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