コロナ禍だから面会の制限があって、入院患者につき、特定の一人しか入れない。娘や夫の両親も入りたかったはずですが、妻の私が家族代表として通うことになりました。とにかく入れるのが私だけだったから、私が全部やらないと。PCR検査を受けて、毎日病院に通ってましたね。
――通院して、どんなサポートをしていましたか。
病院には夫の着替えを持って行って、洗濯物を持って帰って。お風呂に入れるようになった時も、最初は自分で身体を拭けないから、私が身体を拭いて、着替えさせたりといった介助をしていました。ご飯を食べれるようになったら、身体にいいものを調べて、お弁当を作って持って行って。
私は励まさなきゃいけない立場の人間だから、私まで一緒になって落ち込んでいたらだめだし、本人の前で泣くわけにはいかなかった。いつも「じゃあね、明日来るね」と言って病室を後にして、車に乗った時に、涙がこぼれてくる。特に最初の1週間は、本当にどうなるかわからなかったから。精一杯励ましの言葉をかけられるように努めました。
――どんな言葉をかけていましたか。
例えば「大丈夫だよ」って言うときに、言い方には気を付けました。同じ「大丈夫」でも、リハビリすれば絶対良くなるとか、元気になったらゴルフも何でもできるようになるよといったような、100%大丈夫みたいなことは言えない。先過ぎる励ましをしても、この先ずっとできない可能性がありましたから。
なので、一歩先に目が行くように、できるようになったことをベースに励ましていました。「車いすに乗れるようになって良かったね」「ご飯が食べられるようになって良かったね」「家に帰れるようになって良かったね」って。
人間ですから、どうしても元気な時の自分と比べて、できないことに対してフラストレーションがたまっていく。何かできないことがあって落ち込んでしまいそうな時には、「できるようになったこと」に目を向けてもらうようにしています。
――ご自身のSNSでは当時の苦しい日々についてはほとんど触れられていないようですが、どうしてですか。