■喧嘩は素手が基本だった 正義感溢れる硬派な不良

 東京、足立区竹の塚。秋葉原の家電量販店に勤める父と専業主婦の母のもとに長男として生まれた。1歳違いの弟とは幼いころから仲が良く、父の「喧嘩は絶対に負けるな」という教えに従い、2人で切磋琢磨(せっさたくま)しながら逞しく成長した。原田曰く「当時の竹の塚は、下町でもガラが悪いところ」。

「同級生の半分はパンチパーマかリーゼントで暴走族に入っていましたから、僕も決して優等生ではありませんでした」

 高校生になると、学校帰りにディスコで遊んで外泊をしたり、ときには街の不良たちの抗争に参加したりすることもあった。もっとも、喧嘩は素手が基本だ。カツアゲをしている輩(やから)がいたら止めに入るような正義感溢れる硬派な不良だった。

 転機が訪れたのは19歳のころ。渋谷を歩いているとスカウトされた。一度は断ったものの、時期を置いて何度も誘われる。事務所に行くと「毎月10万円出すからうちに来ないか」と口説かれた。その金額にあっさり陥落。しかし事務所に入ってはみたものの「芸能人」という響きに反発する思いがあった。チャラチャラしたやつが大嫌い。芸能人はその代表だった。「大人が作った偽物のかっこよさを身につけて、かっこつけてる、かっこよくないやつ」というややこしい先入観があった。演技レッスンには行かず、勧められたオーディションも「行った」とウソをついた。ついに「もう逃がさない!」と連れて行かれたのが「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」。いまも若手俳優の登竜門だが、そこで準グランプリを取る。

「ヤバいと思いました。特技審査があって、僕は尾崎豊さんの『I LOVE YOU』を歌った。歌だけは子どものころから好きだったのと、意外と短い曲なので早く終わるという目論見(もくろみ)があった。それが準グランプリになって……。最初のころはずっとやめたいと思っていましたね」

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