「コソボ独立は国際司法裁判所(ICJ)が合法とする判例があり、ドンバスの分離政体の主張は議論の余地がある。14年のクリミア併合も現地で強まった分離運動と協力して達成したもの。しかし、ザポリージャ州、ヘルソン州に至っては正当化できません」
分離紛争に発展したのは、13年に始まった「ユーロマイダン革命」の影響が大きい。ウクライナとEUの連合協定調印を、当時のヤヌコビッチ大統領が直前に取りやめたことに端を発する。革命派(マイダン派)は激しい抗議活動を行い、暴力事件が多発する。翌14年、キーウの独立広場周辺で、狙撃によって数十人が犠牲になる虐殺事件が発生。ヤヌコビッチ氏はロシアに亡命した。オデーサでは労働組合会館前で座り込みをしていた反マイダン派をマイダン派群衆が襲撃。火炎瓶で40人以上が焼死した。マイダン派が特徴的だったのは、事件の凄惨な光景を撮影・録画して盛んにSNSで公開していたことだ。松里氏が説明する。
「映像を見たクリミア住民の多くはロシアに移るという3月の住民投票での自分たちの選択の正しさを確信し、ドンバス住民たちもロシア移行論がますます強くなりました。親欧米か親ロかではなく、革命暴力からいかに逃げるかが最大の関心事になった」
ロシアはクリミアを併合したが、当初、ドンバスはウクライナに復帰させるつもりだったという。だが、ドンバスでは内戦が起き、暴力がさらに拡大。15年2月に調印されたミンスク合意には、ウクライナ国内でドンバスに特別な地位を与える恒久法の採択が含まれていた。19年12月、パリでプーチン氏とゼレンスキー氏は初めて顔を合わせた。ゼレンスキー氏がミンスク合意を履行する意思がないことを伝えると、プーチン氏は激怒。平和的解決を放棄することにつながったという。
開戦から9カ月。双方の死者数が増える中、泥沼化を回避して停戦する道はないのか。ゼレンスキー氏は15日のG20サミットにオンラインで参加し、「ロシアはすべての軍隊と武装勢力を撤退させなければならない」と訴えた。だが、松里氏は前述のような経緯から、クリミアとドンバスをウクライナに戻すのは無理ではないかという。