この讒言、すなわち「告げ口」のために景時には悪役イメージがあるが、「毒まんじゅう」事件をあわせて考えると、梶原景時・人事部長の「査定」は正しかったと言うべきではないか。義経の独断専行の傾向を見抜いていたのである。

 この時点ではまだ頼朝との対立は表面化していない。しかし一ノ谷の合戦から約1年間、鎌倉から合戦の指令がなく、義経は「干されて」いた。その間に義経が多少とも態度を改めていれば、彼の運命も変わったかもしれない。だが義経は、その意味に気づくこともなかったようだ。

 そして文治元(1185)年、義経は戦場に復帰し、屋島の合戦を経て、壇ノ浦で平家を滅亡に追い込む。義経の目覚ましい活躍による勝利だ。

 ドラマなどではここで、「今度こそ鎌倉殿は自分を評価してくれるだろう」といった台詞を義経は吐く。しかし、平氏が滅んだことで軍事的天才・義経は頼朝にとって用済みとなり、むしろ敵に利用されやすい危険な存在となったのである。

 あとはご承知のとおり、義経は頼朝から追われる身となり、最後は陸奥で藤原泰衡に急襲されて自害する。31歳の若さだった。

 義経に欠けていたのは、つまりは組織の一員としての自覚だろう。頼朝や景時が組織の維持をつねに最重要に考えていたのに対し、義経は終始、個人プレーの人にとどまった。

 有能な情熱家が、いつのまにか組織の異物となり、最後には無情に排除される――義経の悲劇は、今の会社でも起こりそうな人事的悲劇である。

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