そして頼朝から見れば、この政治的現実と組織の方針を、鎌倉殿(頼朝)の代官である義経は、一般の御家人以上に理解すべき立場にあった。それなのに、なぜ――ということになるのだ。

 許可なく任官したことだけが問題なのではない。まだ20代の義経に差し出されたポストの重さを考えれば、後白河院が義経を、頼朝の対抗馬として取り込もうとしていると疑って当然であった。「毒まんじゅう」たるゆえんである。

■低かった「人事部長」の査定

 もっとも、義経には、王朝と組んで頼朝に対抗しようなどという気はなかっただろう。

 義経が考えていたのは、父・義朝を討った平氏への復讐と、源氏の家名を高めることだけだったはずだ。彼が官職に飛びついたのも、それが源氏の名誉だと考えたからではないか。

 義経は、よく言えば純真、悪く言えば単純だった。悲劇の真の原因は、ここにあると言うべきだ。

 義経のその「単純さ」をよく物語るのが、一ノ谷の合戦から約1年後の、屋島の合戦での、梶原景時との対立だ。

 景時は、司令官・義経に対して、副司令官の立場にあった。この二人が、讃岐・屋島での戦略をめぐって激論となる。『平家物語』が記す有名な「逆櫓の争い」だ。論争の焦点は、屋島に渡海する船に逆櫓(後退時に必要な櫓)を取りつけるかどうか、であった。

 退却のことを初めから考えるのは弱気にすぎる、前進突破あるのみ、というのが義経の主張。それは無謀だと諫める景時を、義経は臆病者扱いした。結果的には、義経の「猪武者」ぶりが当たり、戦に勝利する。しかし、公平に見て、義経の玉砕主義は危険であり、冷静な景時の主張のほうに理があっただろう。

 戦場では義経の部下であった景時だが、目付け役として頼朝の信頼が厚く、いわば鎌倉の取締役人事部長的な地位にあった。景時は、このときの義経の態度に性格の欠陥とリーダーとしての不適格を感じ、それを頼朝に報告した。

「自由、自専の人」、すなわち、わがまま勝手な人だ、と。

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梶原景時・人事部長の「査定」は正しかった?