それは要するに、義経に与えられたポストが、頼朝から見れば「毒まんじゅう」にほかならなかったからだ。
例の野中氏の「毒まんじゅう」発言にさいしては、世間は野中氏の非難に共感したようだった。それならば、義経を追放した頼朝の立場についても、人々はもう少し理解を示していいだろうと思うのである。
■組織の方針への無理解
義経が、武人として、抜群の力量の持ち主であったのは確かである。
その力を天下に轟かせたのが、元暦元(1184)年の一ノ谷の合戦。義経が司令官として指揮し、平氏を破った最初の戦闘だ。
「毒まんじゅう」事件はその直後に起こる。京都の王朝の代表、後白河院が、義経の武略と武功にたいし、官職の授与を申し出た。示されたポストは検非違使の尉。警察と裁判官を兼ねたような地位で、「判官」とはこのポストの別名だ。義経はこの申し出を頼朝の許可なく「食って」しまう。とはいえ、後白河側からすれば、昇殿が許されるための資格も必要なわけだから、無位無官では昇殿は難しい。そんな事情もあった。
これが頼朝の逆鱗に触れる。なぜか。
頼朝の立場になって考えてみよう。頼朝の目指していた東国自立主義において、王朝と一定の距離を保つことは最大限に重要だった。頼朝が鎌倉を動かなかったのも、ひとえにこの理由による。
もちろん頼朝は、地理的な距離だけで自立が保障されるとは考えていなかった。頼朝は、御家人たちが人事をエサに王朝に取り込まれるのを当初から恐れていた。
東国武士は基本的に無位無官で、「恩こそ主」を標榜していた。しかし、官位に無関心だったかといえばそうではない。いざとなれば「名誉」に弱いのが武士だと頼朝は知っていたのである。
官職の授与は、王朝側の最大の政治的武器である。この「武器」を使い、京都は東国武士を懐柔し、組織の分断を図ろうとするだろう。
だから頼朝は御家人たちに厳命していた。「自分の許可なく官職に就くな」「朝廷への推挙は自分が行う」と。すなわち頼朝は、人事権の掌握こそが、いまだ不安定な東国の自立と組織の団結の要だと、正しく認識していた。