藤沢市にある「伝 義経首洗井戸」
藤沢市にある「伝 義経首洗井戸」
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白旗神社(藤沢市)の境内にある義経弁慶像
白旗神社(藤沢市)の境内にある義経弁慶像

 日本人に特有の感情として「判官贔屓(ほうがんびいき)」というものがよく指摘される。この言葉を解説するならば、「弱者などに理屈抜きで同情し味方すること」とでも説明できるが、似たような意味の「依怙(えこ)贔屓」とは相手の立つ位置がかなり違っている気がする。この贔屓される対象は、強者から弾圧や嫌がらせを受けていなくてはならず、得てして強者は世間一般から嫌われているのである。

 ご存じのように、この言葉は源義経の活躍と断罪から誕生した。源義経とは鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で、兄の挙兵に参加し壇ノ浦で平氏を滅亡させ、やがて頼朝から疎まれ討たれた人物である。通称、九郎(源義朝の9男)判官(役職)義経ともよばれていたことから、彼の人生を哀れに思った人たちが持った感情が判官贔屓という言葉となった。もちろん、これは鎌倉幕府という複雑な背景の元に綴られた「吾妻鏡」に仕掛けられた巧妙な記述によるところも大きい。頼朝を直接に批判できない執権北条氏が語った歴史書であるのだから。

 父である源義朝が謀反人として没した時、義経は数え2才、2人の兄とともに母・常盤御前につれられ京から逃れた。この兄たちは醍醐寺と園城寺で僧になり、牛若丸と呼ばれた義経も11才になると鞍馬寺へ預けられることとなった。

 結局、源義朝の子(男子)は、伊豆に流された三男・頼朝、土佐に流された五男・希義、京にいなかった六男・範頼と合わせて6人が生かされたことになる。そして、その後平氏に追討された希義以外は、挙兵した頼朝に参集し、進撃の力となっている。

 父の死去から20年後の治承4(1180)年10月21日(旧暦)、義経が富士川で戦う兄の元へ数十騎で駆けつけた時、義経は21才、頼朝は33才、初対面だったと言われる。この時頼朝が陣を張っていたと伝わる黄瀬川八幡神社には、二人が腰掛けたとされる対面石が残されている。

 義経が身軽で武芸達者だった理由のひとつとして、鞍馬寺のある山で修行したという話がある。鞍馬寺は奈良時代に鑑真の弟子である鑑禎が霊夢により、毘沙門天を祀って開いたものと伝わる寺で、鞍馬山は天狗の棲む山とも言われている。ここには本堂脇から、貴船神社まで続く山道が続いているのだが、途中、木の根道と呼ばれる歩きにくい場所があり、ここで義経は天狗と修行を重ねた。木の根道を少し進むと遮那王(鞍馬寺での義経の稚児名)尊として祀られる義経堂が、もう少し奥には、650万年前に金星から飛来した魔王尊を祀る「魔王殿」もある。鞍馬寺を訪れた際には、義経に関係なく、是非立ち寄ってほしいパワースポットである。

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