鞍馬寺から貴船神社へ続く山道脇にある義経堂
鞍馬寺から貴船神社へ続く山道脇にある義経堂

 その後、義経は17才で鞍馬寺を脱走、奥州藤原氏を頼って平泉(岩手県)へと渡る。頼朝の元へは、藤原氏の家臣を引き連れて奥州から駆けつけたのである。その後、頼朝に許可なしに平氏を壇ノ浦まで追い詰め、天皇の証とでもいうべき三種の神器を海へ沈めたことなどから頼朝から不信を買い、対立するまでは初対面からわずか5年。頼朝は凱旋する義経を鎌倉へ入れず、1185年10月、ついには義経討伐へと頼朝は舵を切るのである。壇ノ浦の戦いから7か月後のことである。

 義経は、再び奥州へ下り藤原氏へ匿われるも4年後、代替わりした藤原氏・4代目泰衡に急襲された居館地で妻子とともに自害して果てた。享年31。江戸時代になり仙台藩主・伊達綱村がこの地に義経を偲び「義経堂」を建立、源義経公像を本尊にしたお堂は世界遺産のひとつである毛越寺(もうつうじ)の境外社として奉斎されている。ちなみに、義経を匿った藤原秀衡は、平氏全盛のころから都の権勢に加わることなく独自の勢力・文化を築き、財力は鎌倉を凌ぐほどだったと言われる。また、源平の争いに加わることなく、頼朝にも毅然とした態度で義経を匿っていたが、秀衡の死去が義経の命運を終わらせたと言えるだろう。なお、義経を急襲した泰衡は、すぐに頼朝に滅ぼされる運命にあった。

 義経の首は美酒に漬けられ、約2か月後に頼朝の元に届いたが頼朝は自ら首実検をせず、部下に確認させている。その首は片瀬の浜へ投げ捨てられたと言われ、潮によって川を登ってきた首を里人が拾い洗い清めたと伝わる井戸が藤沢にある。そして近くにあった寒川神社付近に首は埋められたという。その後、義経を神として合祀、江戸時代に白旗神社と名を変更した。白旗神社の境内には、義経と弁慶の像が立ち並ぶ。

 結局、頼朝は兄弟すべてを戦さで亡くし、生き延びた者も断罪してしまった。息子2人も悲惨な最後を遂げているし、唯一庶子だった子は、北条政子の悋気のせいで隠棲していたため生き延びたが、生涯僧侶として子孫は残せていない。つまり、頼朝が落ち武者までをも追討させた平氏の子孫は生き延び、自らの男系子孫は絶えてしまったのである。鎌倉幕府は北条氏によって続くわけだが、義経の伝説が美しくなるのはここからである。義経の短所や欠点はほとんど指摘されず、弁慶との伝説などが各種美化されていった。

 義経を上げることは頼朝を下げることになる。義経にまつわる慣用句は「判官贔屓」だけではない。壇ノ浦での「八双飛び」、弁慶との出会いを描く五条橋の「欄干飛び」、義経が得た六韜(りくとう/中国の兵法書で全6章)のうち虎韜が戦さでの必勝法を記したものだったことからの「虎の巻」など、ほとんどが伝説の類である。おかげで義経伝説は、生き延びた説まで登場、北海道で余生を送った、果ては海を渡りモンゴル帝国を作ったチンギス・ハーンとなった説まで登場した。

 さて、ほんとに健気な義経が冷血な頼朝に利用され誅されたのか。もはや義経のダメだったところを語ることすら許されない空気が、鎌倉時代にすらあったような気がする。それこそが北条氏が狙ったまさに判官贔屓なのだろうから。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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