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岩櫃城(群馬県)
「表裏比興」と称された真田昌幸の支城
岩櫃城が築城された経緯については、よくわかっていない。鎌倉時代に上野国吾妻郡一帯を支配していたのは吾妻氏であり、吾妻氏によって築かれたともいわれる。吾妻氏が没落したのち、室町時代には斎藤氏が居城としており、実際にはこのころに築かれたものらしい。
戦国時代の城主であった斎藤憲広は、越後守護の上杉氏に従って勢力を拡大したが、永禄六年(1563)、武田信玄に従う真田幸隆よって攻略されてしまう。以後、岩櫃城は沼田城を押さえた真田氏の支城となった。
岩櫃城は、吾妻川の北岸にそびえる標高802mの岩櫃山に築かれている。ただし、主郭部は山頂ではなく、東尾根の先端におかれている。この尾根上に、本丸から東側へ二の丸・中城などの曲輪が連郭式に配置されていた。
城の南側は、蛇行する吾妻川を天然の堀としており、北側は岩壁、西側は岩櫃山の山頂であった。自然の要害性を生かしており、防御力は高い。横堀のほか、斜面には人工的に竪堀を構築していた。弱点となった東側には出丸として天狗丸などを設けており、厳重に守備していた。
関ヶ原の戦いで、真田昌幸の長男信幸は東軍についたことで、岩櫃城を安堵された。しかし元和元年(1615)、一国一城令により廃城となっている。
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吉田郡山城(広島県)
尼子との攻防戦に耐え抜いた毛利元就の居城
吉田郡山城は、毛利氏歴代の居城である。毛利氏は、もともと相模国愛甲郡毛利荘を本拠としていたが、鎌倉時代に安芸の地頭として下向した。それが毛利元就の代に戦国大名化を遂げている。
天文九年(1540)、出雲の尼子晴久が攻めてきたとき、毛利元就は籠城し、大内義隆の支援により尼子軍は撤退した。このあと、大改修され、現在の規模にまで拡張されたとみられる。
城は、吉田盆地の北側、可愛川と多治比川の合流点を臨む、麓からの高さが190mほどの郡山に築かれている。築城当時は郡山の一角を城域としていたにすぎないが、元就の時代には1キロメートル四方の郡山一帯を城域としている。