新庄剛志は再び北海道に戻ってくるのか。
成績不振に加えグランド外でのゴタゴタが続く日本ハムの“救世主”となり得る男の動向に注目が集まっている。
「長崎で生まれ福岡で育ち、大阪、ニューヨーク、サンフランシスコ、ニューヨーク。次は北海道に住みます。背番号は1です。ファイターズの新庄をよろしくお願いします」(新庄)
2003年11月19日、選手として日本ハムに入団する時の発表も記憶に残るものだった。
メジャーリーグ挑戦からの国内復帰が確実視されており、この発言の翌日(11月20日)に予定されていた日本ハムとの初交渉後に正式に入団が発表されると見られていた。事前に話し合いは綿密に行われていただろうが、野球と無縁の映画試写会における“フライング発表”に周囲は仰天だった。
「フライング? お約束? どちらかはわからないが相当のインパクトだった。北海道への本拠地移転を翌年に控える中、球界やスポーツ界だけでなく世間に対しても強烈な印象を植え付けた。日本ハムは新庄とともに他球団のビッグネーム獲得を目論んだが失敗。メジャーでも存在感を見せつけた新庄を球団の顔として押し出すため必要もあったのでしょう。試写会で共演した格闘家のボブ・サップよりも目立っていました」(在京テレビ局スポーツ担当者)
当時、北海道初のNPB球団誕生に向け、スター選手が獲得候補としてリストアップされた。しかしフリーエージェント(FA)としてオフを迎えていたダイエー(現ソフトバンク)の村松有人などとの交渉は早々に決裂と報道された。そんな中、日本ハムへの加入を決意したのが新庄だった。
入団後はグラウンド内外で存在感を示した。在籍した3年間で357試合に出場して打率.268、60本塁打、198打点をマーク。さらにゴールデングラブ賞3回、ベストナイン1回を獲得し、06年には日本一となったチームの原動力となった。また球場でのパフォーマンスなども注目を集め、日本ハムをチケットの入手すら難しいほどの人気球団に変貌させた。革新的な球団経営もNPBにおける成功例として業種の壁を超えて話題になり、その中心にはいつもこの男の存在があった。