
しかし私の中では、瀬戸内晴美さんという一人の作家が出家する瞬間に立ちあったような厳粛な思いが時を経ても消えなかった。
何が書かれていたか、今では記憶がおぼろだが、それまでの生身の晴美という女性が、幼い子供と夫を残して若い男性と出奔し、その後も恋愛を重ねていく自らの業に対するけじめとしての出家であった。
寂聴という名前は、作家であり僧侶でもあった今東光(法名・春聴)がつけたのだが、春という一字を授けようと考えていた今東光に、瀬戸内さんは「おそれいりますが春に飽きて出家するのです」と言ったとか。
代表作、源氏物語の現代語訳に登場する女性たちも愛に疲れ、自分と戦いつつ尼になった。
出家して人々の声に耳を傾けて法話を続け、平和運動に参加しつつも寂聴さんの情熱は衰えず、愛を貫いたのは出家以前と同じ。その正直で変わらない一人の人間、寂聴さんが素適だ。合掌。
下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中
※週刊朝日 2021年11月26日号