それはデザインや広告という表現のあり方と関わっています。先ほど選考委員の西垣(通)先生の審査評の中で、「どのビジュアルも見たことがあるのに、石岡瑛子さんの仕事とは知りませんでした」という趣旨のお話がありましたが、デザインや広告は基本、匿名性のアートであり、クライアントの課題を解決するための表現です。
瑛子さんも生涯クライアントワークの人でした。あれだけ「私」にこだわりながら、ファインアート的な意味での自己表現はまったくと言っていいほどしていない。いわば全身デザイナーで、他人の力になりたいというモチベーションで動いているんです。
でも、そのためにはある種の「エゴ」が全開になっている必要があるという。そこが、ちょっといないタイプの人物なんですね。東洋と西洋の「私」が、戦後的価値観の中で絶妙にハイブリッドされている。ある意味、時代精神の中で“クリエイト”された「私」です。ですから、おおよそ10年ごとに「私」がアップデートしていきます。
評伝である以上、その「私」に切りこまないといけないのですが、そのありさまをどのように活字化していけば、主人公の魅力が伝わるのか、最初は皆目わかりませんでした。色々考えた結果、時代という座標軸の中に、瑛子さんと仲間やライバルたちのエピソードをマッピングすることで、進化する「私」を捉えようとしたのです。
そのことで客観性が担保され、群像劇風のテイストも加わり、読み物として面白くなっていきました。このミステリアスな「私」をホログラムのように浮かび上がらせるため、“合わせ鏡”のメタファーも仕こんでみました。
すると不思議なことに、石岡瑛子さんのワン・アンド・オンリーな「私」が、作者や読者、つまり私やあなたにとっての「私」とつながっていることに気づいたんです。このとき石岡瑛子の「私」の物語が、みんなにとっての「私」の物語に変換されます。つまり、共感性が高まるんです。
チャレンジングな冒険でした。本書に評伝文学としての独自性があるとすれば、ここだと思います。瑛子さんの妹の石岡怜子さんが、この試みをあと押ししてくださいました。