生活道路としても機能してきたから、若い時期三鷹に住み、瀬戸内晴美(のちの寂聴)もこの陸橋を渡り、駅北側の丹羽文雄宅での文学会で修業に励んだのかもしれない。
高校で数学を教える教師だった僕の父は自転車好きだった。休日は幼い僕を乗せ、郊外をサイクリングしていたと母から聞いた。書斎の本棚に太宰の著作を何冊も残したのを見ると、彼もこの橋を見上げていたのを想像する。
錆止めのためか、薄緑のペンキが厚く塗られ、42段の階段と足場はゴツゴツとしたコンクリート。金網には錆が浮き、鉄筋は剥きだしの武骨な橋。
でも、ここからの夕陽は別格だ。マジックアワーになると彼方に佇む奥多摩の山は藤城清治の影絵のように黒々と横たわり、西側には富士山が。中央線の銀色のレールが黄金の空に吸い込まれるように延伸する様子を眺め、夕陽を頬に当てながらとぼとぼレールを伝っていくと、そのまま違う世界へ行くことができる。そんな思いに駆られてしまう。
太宰の『鴎』にこんな記述がある。
「そうして私はいま、なんだか、おそろしい速度の列車に乗せられているようだ。この列車は、どこに行くのか、私は知らない。まだ、教えられていないのだ。汽車は走る。轟々(ごうごう)の音をたてて走る」
この短編は1940(昭和15)年に発表された。
延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞
※週刊朝日 2021年12月24日号