TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。太宰治ゆかりの橋について。
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太宰治が愛した跨線(こせん)橋が姿を消すと知って、自転車を漕いだ。ペダルを踏めば橋までものの10分とかからない。
作られてから1世紀近く。耐震に不安があり、メンテナンスも金がかかる。
JR東日本は地元・三鷹市に譲渡を申し出るが、補強工事をすれば文化的価値も損なわれると、とうとう撤去が決まってしまった。
JR中央線三鷹駅と武蔵境駅の間、線路をまたぐように架けられた「三鷹跨線人道橋」は、全長93メートル、幅約3メートル。旧鉄道省が1929(昭和4)年三鷹電車庫を開く際、人が南北を通行できるように明治・大正の古いレールを利用するなどして建設された。
太宰が三鷹へ引っ越してきたのは橋の竣工から10年経った1939(同14)年。「ちょっといい場所があるんだ」と弟子や編集者を誘ったという。くつろいだ着物にトンビコートを羽織った太宰が橋を降りてゆく写真も残っている。入水するまで、疎開時期を除いて、彼は三鷹下連雀に住んだ。
解体がいつなのかは決まっていないが、やがてなくなるというならば、この1年、季節ごとに通って太宰と同じように橋の上から夕陽を眺めよう。
「かつて太宰治は『青春のはしか』とも呼ばれ、思春期の文学少年・少女たちは、みなこぞって『太宰は自分だ』と感じて傾倒した」と劇作家の平田オリザさんが書いている(朝日新聞「古典百名山+plus NO.113)。
「『生(うま)れて、すみません』(『二十世紀旗手』)と恥じ入りながら、『撰(えら)ばれてあることの恍惚(こうこつ)と不安と二つわれにあり』(『葉』から。ヴェルレーヌの詩の引用)とうそぶく。そんな矛盾もまた、若者たちを引き付けた」
平田さんのいう「青春のはしか」に罹(かか)った読者の多くが全国からこの橋を訪れたに違いない。