神田一家はかつて、都内でも高級住宅街として名高い世田谷区成城付近で暮らしていた。近くには撮影スタジオがあり、芸能人が多く住んでいるところとしても知られている。
当時、その辺りに住んでいたという40代の会社員男性は、偶然、神田正輝さんと沙也加さんが歩いているところに出くわしたときを、こう振り返る。
「もう25年以上前になりますが、幼かった沙也加さんと神田正輝さんが一緒に歩いているところを見ました。小田急線沿いで今は高架線になっている場所ですが、当時は電車が真横を走り、人がすれ違うのがやっとの線路沿いの脇道。薄暗い場所でしたがニッコリ笑って何か話していました。いまから思えば沙也加さんのために、あえてひと目が少ない道を神田さんが選んでいたのかもしれませんね」
実際、父娘の絆は強く、沙也加さんが亡くなった当日の午前10時にも、父親と電話で話していたと報道された。話は沙也加さんの幼少期に戻る。
最初の頃は母親の言うことを聞いていた沙也加さんだったが、そのうち聞かなくなったという。前出の城下氏はこう話す。
「母親だから娘に対して、言い方がキツかったらしく、娘も母親に反発したそうです。母娘でいろいろやってみましたが、当初は、芸能活動がうまく行きませんでした」
そんな中、沙也加さんの才能を見出したのが、演出家の宮本亜門さんだった。
「亜門さんがオーディションで、沙也加は歌もできるし演技もいいというので、2004年に自分の舞台に抜擢したんです」
スターへの階段をのぼり始め、母親との関係がギクシャクするようになった。芸能プロダクション関係者はこう話す。
「聖子さんはセルフプロデュースに長けていて、結婚、離婚でも何でも芸の肥やしというプロ意識の高い性格の人。対照的に、沙也加さんは地味な性格だった。聖子さんは何とか自分の娘を売ろうと、テレビ局や音楽関係者にプロモーションで売り込んだ。はたからは、沙也加さんに対してちょっと過干渉気味にも見えました」